鉄舟再復刊59号 巻頭言

般若心経(二)

垣堺玄了

摩訶般若波羅蜜多心経

(前回までのところ)

 是は天竺のことばなり。摩訶とは、大といふこころなり。大といふ心をしらんとならば、先づわが小さきこころをつくすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人とのへだてをなし、佛と衆生のへだてをなし、有無をへだてて、迷悟をわかち、是非善悪の隔てあり。

之を小心とはいふなり。この心を盡せば、われ人のへだても、佛と衆生の隔てもなくして、有無の心も、まよひといふことも、さとりといふことも、皆平等にして、さらにへだてあることをしらず、これを大心といふなり。此の心は、虚空のかぎりなきがごとし。是れ即ち一切衆生の我々の上に、元来そなはりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におぼれて、此の大心を見ることをしらず、色々わけへだての心あるゆえに、有無の二つにまよひ、生死の二つに隔てられ、いろいろに顛倒迷妄するなり。

(今回)

般若とは、智慧といへる義なり。このはんにゃの智慧とは、凡夫の思へる分別才覚ありて、小ざかしきをいふにあらず。この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、佛道に入ることをしらず。さるによって、小智は菩提のさまたげといへるも此の意をもっていふなり。眞實般若の智といふは、妄想分別をはなれて、大虚空の如くなるをいふなり。三世の諸佛、その外もろもろの智識たちも、皆この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。

 

「般若とは、智慧といへる義なり。このはんにゃの智慧とは、凡夫の思へる分別才覚ありて、小ざかしきをいふにあらず」 前回は経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」のうち、「摩訶」について一休禅師が述べられたところをお話しました。今回は引き続き経題の「般若」について一休禅師が述べられておりますので、それを読みたいと思います。

般若とはインドの言葉で智慧という意味であるが、この智慧は、普通考えられているような分別才覚、つまり頭の回転が速いということでしょうか、そういうものではありませんと申されております。むしろ、仏法では小ざかしいと否定的に捉えているのだと申されています。どんなに知恵者といわれても、それだけでは小利口にすぎないと言うのです。一休禅師はその理由を次に述べられます。

 

「この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、佛道に入ることをしらず。さるによって、小智は菩提のさまたげといへるも此の意をもっていふなり」

 ここで一休禅師は智慧には二種類あることを示されております。小智と大智です。日常、普通に使うのは小智であり、この小智のほかに大智と呼ぶ智慧のあることを知って欲しいと申されているのです。この大智に気づかせてくれるのが仏法です。大智のあること、そしてそれが何なのか分かれば、その対比としての小智にどれだけ振り回されていたかがハッキリ分かります。仏法を学ぶことによって、小智により小さく固まった自分が解放され、大きな心で、ゆったりと、しかも世間と乖離することもなければ、こんなに自由なことはありません。

しかし、ここで一休禅師は、頭の回転の良いことが還って仏法を学ぶ妨げとなると申されております。仏道に入るのに妨げとなるものが八つあるといわれます。そのうちの一つが世智弁聡です。ここでいう小智です。世智弁聡で世間をうまく渡ることができれば、あまり苦しまないわけですが、反面、人生を真剣に考える機会を失っているとも考えられます。軽いということです。愚鈍で正直な人は、己のことから目をそらすことができませんので苦しむのです。苦労は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むと言われます。苦しむ人はこの意味で幸いなのです。

 

「眞實般若の智といふは、妄想分別をはなれて、大虚空の如くなるをいふなり」

 この大智を般若というのですが、この大智が発明しますと妄想分別などいっぺんに吹き飛んでしまいます。その時、心は大空のようにカラットしてゆったりしてきます。それを、坐禅を中心とした修行で成し遂げようというのが禅です。

 

三世の諸佛、その外もろもろの智識たちも、皆この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり」                               

過去、現在、未来の諸仏、もろもろの祖師方もこの大智を開発して佛道を成就するのだと断言されるのです。

これは、三世諸仏、祖師方も大智の開発前は我々凡夫と同じであることを意味します。それは、我々も大智に気づけば三世の諸仏や祖師方となんら変わらないとの力強い断言でもあります。実際はこの智慧の開発が佛道の始まりですので、すぐに、諸佛と同じというわけにはいきませんが、祖師方と手を取り合って進んで行く、その末席ぐらいは許されるだろうということです。これを、なにかのお伽噺、三世の諸佛を特殊な人と考えてはいけません。そのように考えた瞬間に智慧の開発はあり得ません。佛道は、人として未熟な自分の為にあるのです。三世の諸佛は将来の我々の姿なのです。この智慧が開発されると、自分とは何者なのか、そして世界とは何なのかということが分かるようになります。そしてそれが分かると、どのように生きるのが良いかということも分かるのです。そこを「この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。」と申されます。

一休禅師のお話は一般の人に向けてのお話なのですが、どこにも妥協がありません。そのため、始めは分かったようでも、結局何なのかという思いが残ると思います。それを坐禅、入室により、明確にして、誰が何を言おうがこれだと確信していくのが禅修行です。

                                        続く

参考文献

「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編  

国立国会図書館デジタルコレクション

「悟りと解脱」          玉城康四朗   法蔵館