再復刊50号 巻頭言

「同参について」

高歩院 垣堺玄了

 僧堂では一夏(いちげ)の役配を決めて堂内、常住に分かれて修行にあたる。同参(どうさん)が一つの集団を構成し、厳密な規矩(きく)の下に修行に励むのである。役配一人一人の力量が集団の性格を左右する。そのため修行の内容は個人の気持ちの有り様は勿論、集団からも強く影響を受ける。

 私の同夏は一年中、寮舎で寝たことが無かった。毎夜、徹宵である。そういう姿が見るものを後押する。一年中二十四時間、ずっと一緒なので集団としての纏まりは付き易く、同参から受けるエネルギーは意識しなくても大きい。

 それに対して、居士の修行はそうはいかないのが実情だと思う。坐る時間も限られ、一人で坐ることも多いだろう。参禅の間隔も空き易いだろう。動中の工夫は静中の工夫の何億倍と云われる所以(ゆえん)である。仕事にあっては没頭すればそれが禅であり、少しでも時間ができたら拈提(ねんてい)すれば良いと云われるが、仕事上のトラブルでも起きれば拈提どころの話ではない。本当はそれも拈提と同じなのであるが、それが実感できるのは随分修行が進んだ段階ではないかと思う。だから、「外諸縁を止め内心喘ぐこと無く心牆壁しょうへきの如くして」のように意識して、周囲から物理的にも精神的にも自分を隔離していくことが必要だと思う。そして、少しでも坐る時は初めから坐禅に没頭出来なければとても太刀打できない。ちょっと気持ちが良くなったといってウトウトするようでは程遠いと思う。僧堂でも寝ない人間はどんな時にも寝ない。それも無理をして寝ないのではなくやはり寝ない。作務がキツくて時間が無ければない程、真剣に坐れる。こういう人が一人でもいれば、堂内は締まる。


 接心をすると始めの三日ぐらいは、体を慣らすのに気を遣うが、四日目ぐらいから集中出来るようになる。そして全体からエネルギーを貰い、自分もエネルギーを周囲に及ぼして、相乗効果として気力が充実してくる。それは喚鐘に向かう時にも自ずと出る。これが、おそらく僧堂の最も狙っている点の一つであると思う。道場でも同じであろう。凛とした坐相を眼にしたならば、それだけで身が締まるであろう。修行が一人で出来るには相当の力量が必要だと思う。自分の気力を充実させることは勿論であるが同参のエネルギーを借りてグイグイ修行に励む。公案はよく杖に例えられるが、同参もまさしく杖であり、杖以上に自分の体そのものだと思う。一人一人がそう思って道場に足を踏み入れたら情を捨て、取り掛かりたいものである。

 

 先日、こんなことがあった。私が僧堂の大接心に参加した時のことであるが、僧堂時代に懇意だった居士さんが私の坐っているのを見て、後で連絡を下さった。玄了和尚の姿を見て元気になりました。このところ体調を崩し通院が多く参禅をすることができませんでした。その為、もうだめなんじゃないかと気持ちで落ち込んでいました。和尚が東京からわざわざ接心にくる姿を見て元気になりました、、、、と。

 

 確かに、初日に見た居士さんの顔つきと数日後の顔つきとでは全く違っていました。やるぞ、という気に満ちていました。こんなことも同参、道友の力かと思います。

 

「善き友は心の花の添え木かな」

 

(編集部注)

(編注1)一夏(いちげ) 修行の半年の期間、 (編注2)同参:師匠を同じくする修行者・同窓生、(編注3)規矩(きく):禅寺、僧堂の規則、(編注4)寮舎:常住の居る建屋