鉄舟再復刊60号掲載(垣堺玄了)
尋牛 序一
従来不失何用追尋 由背覚以 成踈在向塵
而遂失家山 暫遠岐路 俄差得失熾然是非蜂起
従来失せず 何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背覚に由(よ)るを以って踈と成る
向塵に在って遂に失す
家山 暫く遠くして岐路 俄(にわ)に(か )差(たご)う
得失熾(し)然(ねん)として是(ぜ)非(ひ)蜂(ほう)起(き)す
意訳
牛はどこへも行っておらん ほら傍にいるぞ
そう言っても 捜してる
見ているのに 気づかない
ここ あそこと 尋ねても みな見当違い
好きだ嫌いだの火が燃えさかる
尋牛序一
前回は十牛図全体を俯瞰しました。今回から一つ一つについてお話していこうと思います。
牛とは自分の悩み苦しみを解放してくれる道のことです。大道は目の前に開けているのですが、それがわからないので、なんとかしたいという気持ちで道を尋ねます。
「従来失せず何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん」
もともと自分が仏様だということをまず認識して自覚するところから禅の修行は始まります。道は自らにあるわけです。自分が仏様というと、変な気がしますね。そこで自分の本性を見ろと禅では誘導していきます。この本性を仏様、道、牛などとと言うのです。だから、従来失せずと切り出しました。
しかし、そこにいるといったって目に見えるものではありませんから分からないのが当然です。
それを分かってこう切り出した背景には、よくぞ、修行し始めてくれた、早くこの事に気づいてくれよという思いが込められていると思います。
「背覚に由(よ)るを以って踈と成る」
求める牛は自分の中にある。もともと悟っているということです。これを本(ほん)覚(がく)ともいいます。もともと悟っているのに、なんで牛を求めなければいけないのでしょうか。
その理由も自分の中にあるのです。つまり「仏様」とそれを「くらますもの」の二つが同時に存在しているのです。そのどちらに支配されるか。ここが問題となるわけです。
背覚というのは仏様の心をくらます心に支配されることを意味します。しかし、問題は仏様の心をくらましたと気づかずにいることなのです。それは自分の中の仏様を知らないからです。
この知らないこと、知ろうとしないことを背覚といっています。
しかし、前にも言いましたように、知らないのですからこれも当たり前なのです。
そして背覚と背覚の人どうし、つまりくらまされた心とくらまされた心の人がぶつかれば、そこに衝突は避けられないわけですから、どうしても苦しむことになります。
「向塵に在って遂に失す」
くらまされた心でくらまされた心を制御しようとしても無理なことです。ますます泥沼にはまってしまいます。
このくらます心をここでは塵といっています。塵というのは仏教用語で六塵のことですが例えば物を見る時にガラス越に見たとしましょう。このとき透明なガラスのような心で見ればよいのですが、塵に覆われたガラスで見ると、その物を正しく見ることができないということです。この塵は自分の判断です。これが仏様をくらます心につながっていくのです。
「家山 暫く遠くして岐路 俄(にわ)に(か )差(たご)う」
しかし、いくら、くらます心が勝っているとは言っても、ふとそこに寂しさと虚しさの風が吹く。こうして自分の安心できる家はどこだと探がすのですが、まだくらます心が勝っていますから、その家は山のかなた空遠くにあると勘違いしております。この道だろうか、あちらだろうかと迷うばかりです。しかし、誰もが通る道です。
「得失熾(し)然(ねん)として是(ぜ)非(ひ)蜂(ほう)起(き)す」
第十図を見てください。左側の恰幅の良い人が布袋様。中国で布袋様は観音様のことです。右にボロボロの着物を着て、なんとなく貧相な若者がいます。この貧相なところを「得失熾(し)然(ねん)として是(ぜ)非(ひ)蜂(ほう)起(き)す」と言っているのだと思います。
損か得か、そういうものが、燃え盛って、自分のことばかり考えて、良いとか悪いとか、そういう思いが込み上がってくる。しかし、これじゃだめだなと痛感しているから布袋様に相談しているわけですね。
それに対して第一図ではきれいな着物を着ていますし、顔もほがらかでしょう。 布袋様にアドバイスされ、これからやるぞというはつらつとした感じがよく出ています。
十牛図は円環していると思います。一から始まって十に至り、また一に戻る。人は異なりますが修行と云う観点からすると円環している。無限に。
今説明しましたのが序、そして頌と続くわけですが、この序のところで主旨は言い尽くされております。その意味で本則だと思います。次の頌や和でその本則を角度を変えて説明したり、補ったりしています。
頌に曰く
「茫(ぼう)茫(ぼう)として草を撥い去って追尋す」
さきほど、溌剌として修行に向かうと言いましたが、提唱や法話を聞いているうちはまだしも、入(につ)室(しつ)参禅するとなるとこれは大変です。公案に取り組んでも先が全く見えないのが通常ですから、ここにあるように草茫茫の中にいるようです。草掻き分け掻き分けといっても、どこをどう掻き分ければいいのかも分からない。それが本当のところです。
「水闊(ひろ)く山遥(はる)かにして路(みち)更(さら)に深し」
行く手には大きな湖があり登らんとする山ははるか彼方。道さらに遠しです。
与えられた課題の大きさに圧倒されているところでしょう。
「力尽き神疲れて覓(もと)る(む )に処(ところ)無し」
今でいうストレスで心身ともにへとへと、ちょっとでも糸口がつかめればやる気を奮い起こすんでしょうが、それさえもなく、室内では否定され続ける。そして、もう俺はダメだと。これも誰もが通る道です。
「但だ聞く楓樹に晩(ばん)蝉(せん)の吟ずることを」
楓、晩蝉、秋の暮に物悲しく鳴くセミの声ばかりが聞こえる。蝉の声を妄想と取れば坐禅して参禅もしてはみたものの、なかなか無字三昧にもなれない。雑念もちっとも消えない。それがもう蝉の声のようにうるさく聞こえるだけというところでしょう。
一見、修行の成らないことへの感傷的な表現ととれますが、尋牛で本当に言いたいことは、自分の問題意識の希薄さに気づきなさいということではないでしょうか。自分に問題意識はあるのですが、それが解決されないと自分が崩壊するというところまで行っていない。だから問題そのものも漠然としているのではないでしょうか。問題が漠然としているので解決の方向も漠然としているのです。そのことに気づいて問題をハッキリさせる。問題がハッキリすれば、解決の方向も決まるのです。ですから、この頌の裏にはなにくそという気持ちがあることを忘れないでください。
次に和があります。これは頌に対して二人の和尚が呼応して見解を述べているところです。
和
「只(ひた)管(すら) 区区として外に向って尋ぬ」
これは序の第一句と同じことです。
「知らず、脚底、已(すで)に泥深きことを」
ここも序の第二句と同じです。
「幾たびか廻(めぐ)る芳(ほう)草(そう)斜(しや)陽(よう)の裏(う)ち」
同じところをぐるぐる巡っている。ちょっとここだなと思っても結局同じことの言い替えに過ぎなかったというところではないでしょうか。
「一曲の新(しん)豊(ぽう) 空しく自吟す」
新豊というお酒の名産地があるそうですが、そこの歌が有名だったのでしょうか。そういう歌をふと口ずさむということだと思います。さあやるぞと勢い込んではみたものの、全く歯が立たない。情けなさも手伝い、思わず小さいころに口ずさんだ歌が口をついてしまうというところでしょうか。
又
「本(もと) 蹤(しよう)跡(せき)無し 誰か尋ねん」
いろいろと解釈できるところだと思いますが、素直にもともと人の通った足跡なんかないんだと解釈すれば自分の前に道はなく自分の後に道が出来るということになります。道というのは山に登るためにあるわけですからいくつもあって良いようなものですが、それでも無いといっているのです。それは結局その人の道であって人人個性が違うように道も違わなければならないのです。大半は同じでも最後のところで違ってくるのです。初めから違うこともあるでしょう。それを禅では冷暖自知と言いますが、どうしても自分で自分の道を切り開いていかねばならないのです。気づいてみたら自分の後ろに自分の足跡を見たというところです。
「誤って煙(えん)蘿(ら)の深き処の深きに入る」
人の通った道ばかりいっていると、泥沼に落ち込むぞと言っています。
「手に鼻(び)頭(とう)を把(と)って同じく帰る客」
もともと自分がしっかり牛の鼻を手に握っている。ところが目がそこに行かないで他人の通ったみちを一生懸命行こうとする。だから「ああ、ここにもいないな」といって。また違う道を探しに帰る人ばかりだと言っています。
「水辺林下自ずから沈吟す」
水辺の水面に風の姿が自ずと映し出される、林の下草も風にそよそよと吹かれ、そこに風の姿を自ずと映し出している。目には見えないがそこにハッキリとあるじゃないか。己の顔でそれをハッキリと感じ取ってくれよというところだと思います。
尋牛一では、修行の苦しいところ、逆に言えば肝心要のところをズバリと示しております。
ここを透過していくのは決して楽ではありません。やってはくじけ、くじけてはやるという鈍な気持ちをもっていただきたいと思います。
坐禅してよしやるぞって気持ちになってください。それはそうなるぞと気負わなくても、入息出息に集中していると脊梁骨がおのずと立ってくる。そして意識もしなくてもさあやるぞという気持ちになります。
この道に入ってまともに修行すれば、必ず開けます。
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