鉄舟再復刊62号掲載(垣堺玄了)
見跡 序二
依経解義
閲教知蹤
明衆器為一金
躰萬物為自己
正邪不辨真偽奚分
未入斯門権為見跡
経に依って義を解し 教を閲して蹤(あと)を知り
衆器を明らめて一金と為し 萬物を躰として自己と為す
正邪を辨ぜずんば 真偽なんぞ分たん
未だ斯(こ)の門に入らざれば 権(か)りに見跡と為す
意訳
お経や本を漁(あさ)るようにして読み
仏法の要諦を知るものの
一向に納得することはない
それでもどこか心惹かれ今日もその道を行く
見跡序二
自分の悩み、疑問を晴らしたいと誰もが思うわけですが、いざそこにぶつかると、どうしたら良いかわからない。それでスマホで友達に尋ねる。ネットにある意見にとりついてしまうこともある。
情報の量は過去に比べて激増しましたが内容はほとんど変わりない。そして自分の問題を本質的に解決してくれるものも昔から変わらない。変わったのは圧倒的な情報量とその見栄えの中に埋もれてしまっていることです。
それは、自分をなんとかしてくれるものにたどり着くのが困難になっていることを意味します。
たどりつく為には正しいものと、そうでないものとを見極める目が必要です。
それは自分の目であれば最も良いのですが、自分の信頼できる人の目であっても良いのです。
この目を持つことが見跡です。
「跡」というのはお釈迦様の足跡です。つまり仏教そのもののことです。あるいはお釈迦様の教えを継いで来られた祖師方の足跡とも言えると思います。いずれにしても教えそのものです。
自分の悩み、疑問を解決してくれるのはこれかもしれない、これだなと確信することが目を持つということです。その目を持つから大量の情報の中からお釈迦様の教えを見分けることができるのです。
だから見跡というのは、仏教とはこういうことかと知ることではなく、これで行けばなんとかなるなという直観です。
これは、まだ問題が解決していない段階で起きることです。解決してから確信するのは当たり前ですがその前に確信してしまう。
仏法は逃げも隠れもしない。常に我々の目の前にオープンです。ですから常に私たちにその縁をもたらしています。
しかし、求めなければ決してその縁を自分に引き寄せることはできません。
十牛図全体の図を見てください。この図は十番目から始まって一番目へ行くと見ることはできませんか。
第十図の左に布袋さんがいて、右に疲れ果てた求道者がいます。「どうしたらいいのでしょうか?」と聞いています。そうしたら、布袋さんが「こうしてみたら」と言ってくれたわけです。そして第一図の尋牛で意気揚々として道を求めて行くのです。着ている服だって布袋さんが、袋から出して着せてくれたのかもしれません。
希望に胸ふくらみ颯爽としています。
一般的に、修行の過程は「聞(もん)思(し)修(しゅう)」と言われています。
聞いてよく考えて納得して、そして修行する。
見跡というのはその聞く、納得するというところにあたりますが、先ほど申し上げましたように、この段階の納得は自分の心の直観であって「これでなんとかなるかもしれない」という予感のようなものです。そして修行しながらこの直観を育てていくのです。
「経に依りて義を解し 教を閲(けみ)して」
昔は御経しか無かったのです。ですから御経を見てその教えを閲覧、ちょっと垣間見てと書かれております。
今は禅の解説本もたくさんあります。インターネットにもたくさんの仏教解説があります。
それらを読んで概説を得る。しかし御経を読んでも解説を読んでも、心から納得するのは難しいのではないでしょうか。
「衆器を明らめて一金と為し 萬物を躰として自己と為す」
お釈迦様は、悟られた時に「なんと不思議なことか、一切の衆生は悉く如来の智慧徳相を持っていた」と、そして「一切の衆生は我が子である」と仰せられました。
これが「衆器を明らめて一金と為す」と「萬物を躰として自己と為す」ということです。
そしてこれが仏法の根幹です。
「どんなに悩んでいても問題を抱えていても、その人の本質は佛さまと同じものなんだ」ということ、そして「自分と他人の区別がなくなる」ということです。この二つを自覚することによって悩みや問題を本質的に解決するのが仏法です。
ところがすぐには信じられない。そもそもなんで、そういうことになるのか見当もつかない。だから、仏教を毛嫌いすることに繋がるかもしれません。
しかし、大体、常識の範囲にあることは、どんなに魅力的に見えてもあまり役に立たないようです。
なぜならば、それらは常識の範囲内に留まるので、自分を本質的にひっくり返してくれるエネルギーに乏しいからです。
「正邪を辨ぜずんば 真偽なんぞ分たん」
読んではみたものの、内容も理解できなければ、信じることもできない。でも、なぜか棄てることもできない。それは正しいのか正しくないのかをまだ自分で判断できない段階だからです。
誰もが皆この段階を通過するのです。
この悶々としている間に心は正邪を見極める力を養生しております。それが表面に現れてこないだけです。自分と佛様が同じだとか、他人と自分は一つだというのは常識と全く正反対なのですから、それを血肉にしていくにはそれ相当の時間が必要です。
先ほど、予感のようなものが修行へ入るきっかけであるという意味のことを申し上げました。しかし、この予感だけでは修行の推進力としては足りません。
本当の推進力にするには、禅であれば祖師の語録、公案というものの内容が自分なりに咀嚼できることが必要です。「そうか、こういうことを言っているのか」という確信です。
予感から確信に変わることです。この信が確立された時に初めて自分の推進力になるのです。
それでは、どうしたらこの確信を得ることができるのでしょうか。禅宗では、具体的に坐禅して、公案拈提、入室参禅、そして作務などの実修によってこれを体得していくのです。
「未だ斯(こ)の門に入らざれども 権(か)りに見跡と為す」
「まだ修行が本格的に始まっていないのだから、跡を見ただけだ」とも解釈できますが、「まだ自分で判断できる段階には至っていないけれども、自分を導いてくれそうだとの予感は持っている」「仏道の門をまだくぐり抜けてはいないが、門の前までは来ているぞ」と修行者を励ましているのだと思います。
以上の事を頌で述べております。
「水辺林下跡偏に多し」
先ほど、御経や教えに仏法の真髄が語られていると申しましたが、さらに拡張して水辺林下、日常のありとあらゆるところに、あらゆる時にお釈迦様の言われたこと、祖師方の言われたことが満ち々ていると言われております。
仏法の縁はどこにも、いつでも開いているのです。
「芳草離披見るや也た麽(いな)や」
芳(かぐわ)しい草花が生い茂っているのだが、それを見ることができるかな?見てくれよ。と言われるのです。芳草とはこの段階では自分を導いてくれる教えと取って良いと思います。
「縦い是れ深山の更に深い處なるも」
この教えは、いまだ見えない人には深山の奥深いところにあるように思えてしまうのです。
ところが、見える人には足元にあるとしか思えない。不思議なことですね。
しかし、これは達人だけが見えるものでは決してありません。誰もが見えるのです。真剣に見ようとすれば。
「遼天の鼻孔、怎か他を蔵さん」
天を衝くような牛の鼻はこの深い山でも隠すことは出来ないと言っておられます。
坐禅そのものとなっている時にこの鼻孔なるものが表れている。
それは隠しようがありません。自分で気づくかないだけです。ハッキリ表れているのです。
求めているところが自分の中から出て来るということは何と力強いことではないでしょうか。
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