· 

十牛図提唱4

鉄舟再復刊63号掲載(垣堺玄了)

見牛 序三

従声得入 見処逢源 六根門著著無差

動用中頭頭顕露 水中塩味 色裏膠青

眨上眉毛非是他物

 

 声より得入すれば 見処源に逢う

 六根門著著差(たが)うことなし

 動(どう)用(ゆう)の中頭(ず)頭(ず)顕(けん)露(ろ)す

 水中の塩味、色裏の膠(こう)青(せい) 

 眉毛を眨(さつ)上(じよう)すればこれ他物にあらず


意訳

 谷川のせせらぎ、鳥のさえずり、山寺の鐘の音、

 なにやらみんな懐かしい

 見るもの聞くもの日々の暮らし、なにやらみんな嬉しい

 海の塩だって、絵の具の膠だって、ほら、

 そこにみんな、輝いている


見牛序三

「声に従い得入すれば見る処(ところ)に源に逢う」

 音を聞くことに意識を集中して、そこに美しさ、輝き、懐かしさ、心地よさを感じる時、それをもたらすものは何なのかと問い詰めることです。音にその要因があるのか、聞く本人にその要因があるのか、それとも、その双方に要因があるのか、と問い詰めていくのです。そしてその源をハッキリとつかむということです。

 

 これを、直観的に表しているものがありますので紹介します。

 

 岡潔先生が仰っているのですが、寺田寅彦先生が当時の松山高校に在学だった時、夏目漱石先生が教壇に立っておられた。その時に漱石の家に行って質問をしたのです。

 「俳句とはどんなものなのでしょうか」

すると、漱石先生は、

「しぐるるや黒木つむ家(や)の窓明り」(凡兆)のようなものであると答えたのです。

 しぐれの音無き雨音が聞こえるようではありませんか。そして雨にしっとり濡れて黒くなった薪に窓明かりと、なんともいえない懐かしさが感じられませんか。

 源に逢うということはこういうことではないでしょうか。そこに、水、木、光という物理ではなく趣を感じる。

 本源は宇宙を貫く。ですから自分も含めて全てのものを貫いています。ですから、本源そのものに出くわすと懐かしさが呼び起こされ、思わず俳句として読んでしまうのだと思います。

 

 ひねり出そうと思ったら、こういう句にはならないと思います。

俳句のお好きな方は、スーッとこういうものが心に入ってくるのでしょう。そして、そのままが日常となるのだと思います。自覚はなくても、はっきり本源を見ているのだと思います。

 

「六根門著(じやく)著(じやく)として差(たが)うこと無し」

 ですから眼耳鼻舌身意とどこからでも良い。その六根の感じるところに趣を感じ、その趣が何なのかを突き詰めていけば、本源に逢うことができます、ということです。

 

 鉄舟会で行う、書、法定、茶道全てそうです。例えば書ですが、そこに本源が表れているかどうか、見てとれるかが大事です。本源とは坐禅三昧になっているそこのところです。作家の名前に惹かれてはいけません。それはもう、眼から離れて、自分の解釈の世界に入ってしまうのです。同じ作家のものでも優劣は存在します。鉄舟会の先達、山田研斎先生がおっしゃられた「鑑賞眼」です。これを養成しないと、六根門ではなく自分解釈になってしまいます。

 公案なども、鑑賞眼が備わってくると、自然と見えてくるのですが、どうしても、自分の思いが先行して解釈するので、いつまでも同じことをいうようになってしまうのです。

 

「動(どう)用(ゆう)の中も頭頭として顕露す」

 この「鑑賞眼」がここでいうところの見牛なのです。

「鑑賞眼」が備われば、動用、つまり日常のところに、その本源を見出し、いままでの表面的な見方が一変し、そこになんともいえない味わいも感じることになると思います。もちろん、本物と偽物の区別は容易につきます。

 

 水中の塩味(えんみ)色裏(しきり)の膠青(こうせい)

眉毛を眨上(さつじょう)すればこれ他物にあらず

ですから、海水中の塩だとか、絵の具のなかの膠といったような、一見まぎれて見えないものが見えるといいます。全体の本質を掴んでいるので、個別のところが一層ハッキリとしてくるということです。

 

頌に曰く

「黄鸎枝上に一声声 日暖かに風(なご)和(やか)にして岸(がん)柳(りゆう)青し

 只だ此れ更に廻避する処無し 森森たる頭(ず)角(かく)画(えが)けども成り難し」

 鶯が枝にとまって一声「ホーホケキョ」と鳴いている。空気がピンとはりつめて、自ずと清々しさがあります。温かい日差しに風が和やかに吹いて池の岸の柳が驚くほど青々としている。

 これは、先ほどの凡兆の俳句と通じるところがあります。中国には池が多いですね。そこには大体柳が植えてある。乾燥している関係か、柳が風に吹かれてそよそよと揺れている様は日本の柳とは異なります。同じことを読んでも、日本と中国ではこれだけ違います。しかし、それは表面のところだけです。そしてその違いがまた、実に面白いところだと思います。

 頌では、「このようにどこにもかしこにも、その源が表れているのに、残念だが、これを描くことはできない」とダメ押しをしております。

 

 さてこの見牛は十牛図の三番目に出て来るのですが、十牛図を修行の階梯、順番と取ると間違いなのです。

 この三番目は無字を見たところです。十牛図のそれ以降はその無字をどれだけ広げるかのところです。従いまして、この見牛がなければ、あるいは、あいまいであればそれ以降の修行の推進力は弱いものとなるのです。

Write a comment

Comments: 0