鉄舟再復刊64号掲載(垣堺玄了)
得牛 序四
久埋郊外 今日逢渠 由境勝以難追
恋芳叢而不已 頑心尚勇野性猶存
欲得純和必加鞭撻
久しく郊外に埋もれて
今日渠(かれ)に逢う
境すぐれたるに由って以って追い難し
芳(ほう)叢(そう)を恋いて而も已(や)まず 頑心なお勇み野性なお存す
純和を得んと欲せば必ず鞭撻を加えよ
意訳
喧騒を離れて道場に身を寄せ、何年か
本日、やっと本来の面目に出会えた
でも俺が々々は、簡単に消えそうもない
さあ、ここが正念場、鞭を当てもうひとふんばり
得牛序四
「久しく郊外に埋もれて 今日渠(かれ)に逢う」
渠(かれ)というのは、本来の面目ですから出家だろうが在家だろうが関係ありません。萬有の根源です。「今日渠(かれ)に逢う」というのはその本来の面目をハッキリ自覚したということです。しかし、「久しく郊外に埋もれて」の取り方は出家と在家では異なるかと思います。出家は文字通り郊外にある僧堂で修行します。世俗と断ち切れるようにシステムが出来ていますから「郊外に埋もれる」と云うことが文字通り可能なのです。
生活するための原資はご供養、托鉢、畑仕事を中心にして得ることが普通です。ですから、在るものだけで生活するのを基本とします。しかし、寝るところと、最低限の食べるものは与えられるのです。それは、檀家さんをはじめ、ご支援してくださる方々に守られて修行生活ができるからです。
これは大変めぐまれた環境だということが言えます。
毎日が、そして全ての時間が自ずと「自分の中に向かっていく」システムになっていますから、本来の面目へと向かっていきやすい環境なのです。これが僧堂の最大の目的だと思います。
一方、在家の場合、この「郊外に埋もれる」ということはどういうことなのでしょうか。残念ながらこのことを真剣に突き詰めないで修行される方が多いと思います。
僧堂の場合で申し上げましたように「郊外に埋もれる」とは「自分の中に向かっていく」ということです。ですからロケーションは基本的には問題になりません。普通、日常生活では「自分の外に向かって」いますので、その対比として「自分の中に向かう」を郊外と称しているわけです。
「自分の中に向かっていく」というのは自分とは何か、それは今生きて、考え、行動している自分ではなく、それを突き動かしているもの、自分の根源を追求していくことです。これが禅です。
従いまして、これが毎日、全ての時間でできれば僧堂と何のかわりもありません。そして、これは可能であり、在家修行者が日常の喧騒と並行して成し遂げなければならないことなのです。もちろんフルタイムで可能ではありません。重点を郊外に置くか、都会の喧騒に置くかなのです。
この点につきまして在家修行者の陥り易いところがいくつかありますので思いつくまま書き記します。
一つは、 坐禅の意味が曖昧だということです。
修行中は無字拈(ねん)提(てい)の坐禅が最も大事です。ここで、坐禅の意味を掴(つか)まないと、仮に公案が先に進んでも禅を会することに不安が残ります。
六祖慧(え)能(のう)大師の提唱した定(じよ)慧(うえ)一(いつ)等(とう)、これが禅の命です。この定は坐禅だけとは限りません。しかし、ここでは坐禅と限定しましょう。この坐禅と般(はん)若(にや)の智(ち)慧(え)とが同じであるというのが六祖のおっしゃるところです。ですから、坐禅して智慧が開かれなければ坐禅ではないということです。始めの無字でここまで到達しないと「自分の中に向かっていく」ことにはなりません。それは、根源からの智慧、それが般若の智慧ですが、それが日常において働いてこそ、定(じよ)慧(うえ)一(いつ)等(とう)の意味がもたらされるからです。
般若の智慧とはなんでしょうか?それは開発された時、自分でこれだ、とわかります。ですから大事なことは、その智慧を開発するために坐禅するのだと確固として方向を定めることです。
智慧の開発と同時か、前後かはその人によって異なりますが、自分の根源とはなにか、ということも自ずとわかります。
ところが、坐禅を数息観に集中するとか、公案を拈提するための時間であるように思い、やっていればそれなりの境地になるだろうと思っている人が多いのです。
また、まだ長時間坐れないから、もう少し慣れなければ、拈提もできないだろうとか、誰それも四年、七年かかったのだから、俺なんかまだまだ時間が掛かるだろうとか、自分を甘やかし、坐禅の方向どころの話ではないと言う人が多いのです。
決してあせってはいけないのですが、五十代で修行を始めて二十年たったら、もう活躍する時間はないのです。それが本望ですか?
惰性に陥ることなく、人との比較もなく、確固たる方向の基にひたすら坐禅に集中することです。これを心(しん)決(けつ)定(じよう)と申します。静かに自分の来し方行く末を想い自分の人生において禅をどう位置づけるか、考えておくことが必要です。
二つは、 「動中の工夫は静中の工夫の何万倍」の解釈です。
坐禅の工夫よりも日常生活の工夫の方が力をつけると解釈して坐禅をないがしろにすることです。仕事を一生懸命すればそれが修行であるという単純な考えかたです。毎日、坐禅するのが億劫だから、この言葉のもとに、坐禅しないことをごまかすのです。
「動中の工夫は静中の工夫の何万倍」とは静中の工夫に一通りの区切りがついたらば、動中の修行へ向かえということです。つまり、悟後の修行の大事を言っているのです。悟後の修行からが本当の修行だと言っているのです。
そこを自分の都合の良いように解釈して、室内の区切りのつく前に、仕事を一生懸命すれば動中の工夫だから、坐禅以上であると言い訳して、結果修行が低調となるのです。
日常がそのまま道場となるのは、もっともっと後のことです。修行中は、朝、夜と毎日、寸暇を惜しんで坐らなければならないのです。
三つは、 「成り切る」ということです。
禅宗では「成りきれ」と言います。何事にも「成り切れば」根源そのものなのですが、口先だけで「成りきる」と言って無駄な力を使い実際は力の抜けていることがよく見受けられます。
鉄舟会では書道の稽古をいたしますが、もちろんそれは全身全霊で書を書くことに「成りきって」いくことです。ところが、見ていますと、やたら力んで腹に力をいれてみたり、筆を強く握ったり、運筆をやたら遅くして紙に食い込むようにして書を書いたりしているのを見かけます。しかし、出来上がったものは気力の不足した書になることが多いのです。書の場合「成り切る」とは筆、紙、墨、自分、文字そのものが一体となって気が通っていることです。
筆は手のひらに卵が入る柔らかさ、運筆は流れず、滞らず、筆が自然に動く速度です。自分の気が上がれば上がるほど、墨、筆、紙、文字と離れてしまい上滑りになります。
これも先ほどの「動中静中の工夫」と同じように「成り切る」ことの意味がぼけていることから起こります。「成り切る」ということに「自分の根源とは何か」という強い疑問の裏付けがないと上滑りします。
修行中は「成り切る」ということと坐禅とは全く同じです。そこに「動中静中」の区分けはありません。坐禅三昧になっている時、「成りきり」三昧になっている時、そこに何があるんだということです。それは自分の根源を掴むための入り口です。その根源を掴むために「成りきる」のです。
「成りきる」ことと、無字の拈提が全く別のことになってしまうのでその方向を間違えてしまうのです。
四つは、 集中力です。全身全霊の統一です。
例えば、例会で坐った後、作務衣に着替えるのに道場の二階に上がりますが。着替えているとき、ふっと気が抜ける、雑談に近い言葉が思わず出てしまい、間が締まっていないのです。
集中力が必要なのは「自分の中に向かっていく」そのもののためです。一瞬一瞬に「自分の中に向かっていく」。その一瞬に全身全霊が統一されなくて、どうして三十分、四十分の坐禅三昧ができるのでしょうか。
僧堂では、この間を絞めるために、所作へ移る時間を極端に短くします。雲水が常に走っているのはこの為です。そうやって間を絞めて、集中力を切らさないようになっているのです。
在家修行では務めて間を絞めることに留意しなければなりません。鉄舟会の接心ではこのことも含めてスケジュール化しておりますので、参加すると間を絞めるということが分かると思います。昨今のスマホを眺めながらの所作ではとてもとても集中力は培えません。
最後に接心参加についてですが、これは部分参加などではなく始めから終わりまで参加しなければだめです。部分参加には自分の都合が巧みに隠れているからです。あらかじめスケジュールが決まっているのですから、万難を排して全身全霊で取り組む気構えを持ってください。
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