鉄舟再復刊66号掲載(加藤弘明氏寄稿)
鉄舟会における直心影流法定の立場
鉄舟会では草創期の大森曹玄老師の頃より直心影流法定の形を稽古するのが通例となっている。会名由来の山岡鉄舟居士もまた大変な剣の達人であった事などを考えれば、この居士禅道場の剣道にも今少し脚光が当たっても良いのではなかろうか、と思ったのが、この記事を書く最初の動機であった。
ある剣道家の興味深い言がある。剣道においてその技術以外に最も大事な事は、その技を自由に駆使する精神的要素である。それは「無念」または「無想」という心境である。これは、太刀を取って相手の前に立った時に、思想・観念・感情などを持たない、という意味ではない。思想・反省あるいは、すべての愛着を断った意識によって、生来の能力を働かせる意味である。この心境をまた「無我」といい、利己的思想を抱かず、自分の所得を意識せぬ状態である。これは水に映る月影に比較することができる。月も水も「水月」と呼ばれる事象を作りだそうという考えを、前もって有していたわけではない。水は月と同じく「無心」の状にある。が、一帯の水あれば、そこに月がうつる。月はただ一個だが、水あるところどこにもその影をうつす。
「水中の月とはどういう意味であるか」「剣道の各流儀では、いろいろに説明されているが、要するに、水あるところ、いかなるところにも、月が「無心」の状態で映る、その映り方を会得することである。嵯峨の広沢の池の畔で詠まれた御製が一つある。
「うつるとも月もおもはず うつすとも水もおもはぬ 広沢の池」
この歌から、人は無心の秘訣を洞徹するに相違ない。そこには、人の手による工夫の痕は一つもない。あらゆるものが大自然に任されるのだ。これが理解されるとき、その技は完全になる。結局、禅と剣道とは、両者が究竟において生死二元を超越することを目的とする点で一である。古来このことは剣匠の認むるところで、偉大な剣士が例外なく禅門をたたいたことは、柳生但馬守と沢庵、宮本武蔵と春山の場合の例証通りである。
今一つ、武士の感じ方と禅との内的関係について触れたい。われわれが一般的に武士道と理解するものを作り上げるようになった中心思想は、武士たるものの威厳を不断にたゆむことなく擁護するということである。この威厳とは、忠孝仁義の精神である。
しかし、これらの義務を立派に果たすためには、二つの事が要る。一は実践的な方面のみにあらず、哲学的な方面でも、一種の鍛錬主義を抱持することであり、一は常住死を覚悟することである。これがためには、多くの精神上の修養が大いに必要である。
「葉隠」はこう述べる。いつにても身命を捧げる武士の覚悟を極めて強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、現代語で表現すれば、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと。武士の修養が禅と提携するのはまさにこの点にあるのだ。
死の問題は我々の誰にとっても大問題である。しかし、もっぱら戦闘に生命を捧げる武士にとってはさらに逼迫している。戦闘は闘う者双方の側にとって死を意味する。封建時代には誰もこの死的遭遇がいつ起こるか予言できなかった。その名に背かぬ武士は常住不断に注意を怠らなかった。十七世紀の武人大導寺友山は著書「武道初心集」につづっている。
「武士にとって最も肝要な考えは、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。主に忠、親に孝、而して当然一切の災難を避けることができる。汝は長命をうるのみならず、威徳も具わるであろう。人の命の常なきを、取りわけて、武士の命の常なきを考えよ。かくして、汝は日々是れ汝の最期と考え、汝の義務を充さんがために、日々を捧げるに至るであろう。命長しと思うこと勿れ。何となれば汝は一切の浪費に耽り易く、汚名の間に汝の生を閉じ易いからである。正成の其子正行に絶えず死を覚悟させたのも、このゆえなりという」
「武道初心集」の著者は一般に武士の心中に無意識に起こっていたところのものを正しく表現したのであった。死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引締める。それゆえ、真面目な武士が死を克服せんとする考えをもって、禅に近づくのは当然である。禅がこの問題を、学問や道徳的修養や儀礼に訴えることなく取扱うことを主張するのは、比較的に思弁を事とせぬ武士の心には、大きな魅力であったからに違いない。武士の心構えと禅の直接的・実践的教義との間には一種の論理的な関係があった。
剣聖塚原卜伝は、「武士(もののふ)の学ぶ教へは押なべて そのきはめには死の一つなり」という歌を遺している。
「葉隠」はさらに続ける。「生死を離るべき事、武士たるものは、生死を離れねば何事も役に立たず、万能一心と云ふも、有心のやうに聞ゆれども、実は生死を離れたることなり。その上にて、如何様の手柄もさるるものなり。芸能などは道に引入るる縁迄なり」と。
沢庵禅師は、「無心」の心に達すれば一切が成就する。それは死とか不死とかの問題に煩わされぬ心の状態であると説く。
益翁の許で熱心に禅を研究した戦国の名将上杉謙信は後年、家臣たちに次のような訓戒を遺した。
「生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり。よく此の心を得て、守持する所堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、何ぞ生死に関せんや。予、常に此の理を明らかにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭うが如きは、未だ武士の心胆にあらず」
これらの言説より、禅と武士の生活との間に内的な必然的関係があることを如実に見て取る事ができる。この種の精神こそが、禅が武士修禅者の間に養われたものである。禅はかならずしも霊魂の不滅や神の道の義しさや倫理的行為について語らぬが、ただ合理・非合理いかなる結論であれ、人がそれに達したものをもって突進する事を説いた。
哲学は知的精神の所有者によって安全に保存せられてもよい。が、禅は行動することを欲する。最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、振り返らずに進むことである。この点において禅は実に武士の宗教であるといえるのである。
直心影流の源流である神陰流。足利時代、十六世紀後半に始まり、秘伝を鹿嶋の神より授かったと云う。爾来、それは幾多の発展段階を経て、秘伝は増えつつ巻をなした。
現在様々な古文書があるが、これは師から授けるに値すると考えられた最も優秀な弟子達に与えられたものである。これらの文書の中には、表面的には剣の使用とは何ら関わりのない、甚だ禅臭い文句や詩の形をした警句を見る。
例えば、この流儀の師範となる資格ある者に与える最後の証書(免許・皆伝書)には一円相のほかに何も書かれなかった。これは照りかがやいて一点の曇りなき鏡を表すものと思われる。その意味するところは無論仏教の大円鏡智の哲学。剣士の心は、常に利己的な感情と智的な策略とを全く去って、「本来の直覚」がいつでも全く至上に働きうる、つまり無心の状態にあらねばならない。単に太刀の使い方が技術的に巧みだという事は、必ずしも、剣匠として十分な資格にならない。精神的鍛練の最期の段階。それは円空によって象徴される無心の境地に到達することである。
封建時代、剣や槍の師範はしばしば「和尚」と称せられていた。この習慣の起こりは、奈良興福寺に偉い坊さんがいた事実に跡づけられる。僧は興福寺管轄下の宝蔵院という小さい寺に蔵していた。彼は槍の名手で、宝蔵院の僧たちは皆、彼についてその技を学んだ。
彼は当然、弟子たちには「和尚」であった。そしてその称号は仏徒であろうが、なかろうが刀槍両道の師範すべての人の上に移されることとなった。
剣道を錬磨する広間を道場と呼ぶ。道場は宗教的練習に使われる場所の名である。その梵語bodhimandalaの原意は「悟りの場所」である。
このように剣と禅は相補的であり、お互いの立場を深く理解する上で必要不可欠な関係にある。
我らが山岡鉄舟居士も若き日に剣の師匠、井上八郎清虎を介して武州芝村長徳寺の願翁和尚と邂逅し、禅の道へと導かれた。大森老師も直心影流剣術を通して掴もうとした境涯を禅によって解き明かそうと、精拙元浄禅師の門を叩かれた。
剣にせよ禅にせよ、問題の核心は畢竟、己自身にある。他者、敵に打克つのではなく、己自身に打克つ事によってのみ前途は拓かれるのだ。自と他、主体と客体といった対立概念、二元的世界観ではなく、一元的なる世界。つまり自他の超克である。
幸いなことに我々には道筋をつけてくれる偉大な先師が存在する。
このような偉大なる先師の遺した足跡、道標を素直に辿って往けば、あれこれと試行錯誤する事なく、より安易に先師方が仰いだ高嶺の月への階梯を登りつめる事ができるだろう。
一切を放下し、自然と内外打成一片となる。主客一如、いつか無そのものになりきって一つとなる。やがて無も消え去り、絶対無の心境が開ける。豁然として真実の自己に目覚め、宇宙の実相に徹見する時期が到来する。
剣と禅という二つの道は偉大な先師が予め想定し、確約された方法論であり、周到に用意された程式(プログラム)に違いないのだ。そして鉄舟会は、その遺志が託された実践修行道場である。
「當處即ち蓮華國」
禅定を深めるために剣術を、剣術を極めるために禅定を。双方を車の両輪として修行される事をぜひお勧めしたい。
今回は鉄舟会における禅と剣術修行の立場を述べさせて頂いたが、機会があれば法定、鹿嶋神傳直心影流の成り立ち、その背景にある思想・哲学、更には形に秘められた術理などについても述べてみたいと思う。 (続く)