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十牛図提唱10

鉄舟再復刊69号掲載(垣堺玄了)

返本還源 序九

本来清浄にして、一塵を受けず

有相の栄枯を観じて、無為の凝(ぎょう)寂(じゃく)に処す

幻(げん)化(け)に同じからず豈に修治を仮らんや

水緑に山青うして坐(いなが)らに成敗を観る


意訳

 あの人もこの人も

 あれもこれも

 光を放ってる

 

 ホラ歌ってごらん

 それだけ、それだけで

 光ってる


返本還源 序九

 前回は「人牛俱(とも)に忘れる」ということでした。

 一通り修行の成ったところです。なんでもそうですが、身に着けるものが身に着くと、身に着けているのが当たり前となります。もう次のことに行動が移るので身に着けたことも忘れてしまいます。

この返本還源はその行動が満を持しているところです。修行の一通り終わった眼で見ると世界がどのように見えるかということが主題となります。

 

 返本とは修行する前のところに戻ってくるということです。そして日常のところに、修行前までは見抜けなかった物事の本質、本源を発見しているので還源といいます。

本源から見ますと、すべてが光を放っていることがわかります。そして、その光が無限の過去から無限の未来にわたっていることも分かります。また空間的に、ここから無限の彼方まで及んでいることも分かります。

時間的にも空間的にも貫いているのです。

 

 禅の修行はその光が自分を貫いていることを把握するところからスタートします。やがてその光が自分だけでなく、あの人もこの人も、そしてあれもこれもを貫いていることが分かるようになります。

そんなこと信じられないと思うかもしれませんが本当なのです。疑う人はエビデンスを示せとなりますね。

禅者は簡単にそのエビデンスを示します。例えば、黙ってスクッと立ち上がるとか。

この一瞬の行動の中に、本来の清浄身も、一塵もないところも、無為のところも、修治を仮らないところも、成敗を観るところも盛り込まれています。立派なエビデンスです。この一瞬の行動が禅の命です。一瞬の行動はもちろんその人の物事の捉え方、世界観からもたらされます。

 

 十牛図の始めを思い出してみてください。第一図は道を求めてさまよう姿でした。そして第二図、三図と修行が始まり、今ここで第九図となったのです。僧堂でもここまで来るのに十五年、二十年かかるのが普通です。その気の遠くなるような修行が凝縮して先ほどの一瞬の行動として発露したのです。その一瞬に人生の真価の光を放ったのです。

この第九図を指していわゆる悟りの一つの極致であると思われる方もおられようですが、それは違います。ここに立って初めて行動に出ることができるのです。

それはその人の光、その人の個性の行動です。その人にしかない命の火が燃えるところです。ですから、やっとスタート台に立てた、さあやるぞ、ということになります。

 

 はじめに、この第九図は行動に移る前のところであると申しましたのはこのことです。

そしてこの時、その光が修行する前から自分を、否、すべてのものを貫いていたことも分かるのです。

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