摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経
(一休禅師法語の原文)
摩訶般若波羅蜜多心経
是は天竺のことばなり。摩訶とは、大といふこころなり。大といふ心をしらんとならば、先づわが小さきこころをつくすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人とのへだてをなし、佛と衆生のへだてをなし、有無をへだてて、迷悟をわかち、是非善悪の隔てあり。
之を小心とはいふなり。この心を盡せば、われ人のへだても、佛と衆生の隔てもなくして、有無の心も、まよひといふことも、さとりといふことも、皆平等にして、さらにへだてあることをしらず、これを大心といふなり。此の心は、虚空のかぎりなきがごとし。是れ即ち一切衆生の我々の上に、元来そなはりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におぼれて、此の大心を見ることをしらず、色々わけへだての心あるゆえに、有無の二つにまよひ、生死の二つに隔てられ、いろいろに顛倒迷妄するなり。
(解説)
「是は天竺のことばなり。摩訶とは、大といふこころなり。大といふ心をしらんとならば、先づわが小さきこころをつくすべし」
摩訶とは天竺(インド)の言葉で大という意味ですが、大という心を手に入れようとするならば、まず我々の持つ小さい心を滅尽しなければならないと申されております。
「小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人とのへだてをなし、佛と衆生のへだてをなし、有無をへだてて、迷悟をわかち、是非善悪の隔てあり。之を小心とはいふなり」
小心とは妄想分別のことを指します。その妄想分別で自分の心を小さく固めてしまい、ここで申される様な隔てが生じます。しかし、この隔てとは元来、人が生きるための本能から生じるものです。例えば、自分と他人とを区別しなければ自分を守ることができません。ところが、一人では生きていけないのも事実です。自分は他人を疎外するが他人は自分に親近して欲しいとはいかないのです。ですから、この隔たりというのは扱いが難しいのです。隔たりがあって隔たりなしのように一見、矛盾した扱いをする必要が生じます。これが旨くいかないところに悩みも生じます。このように悩む心を仏法では小さい心、妄想分別と呼んで、これを取り去ることを修行の主眼とするのです。他人のせいにするのではなく、自分をみつめ、変えることから始めるのが仏法です。
「この心を盡せば、われ人のへだても、佛と衆生の隔てもなくして、有無の心も、まよひといふことも、さとりといふことも、皆平等にして、さらにへだてあることをしらず、これを大心といふなり」
今北洪川老師は、「禅海一瀾」の中で「獅子王の吼哮するに百獣震駭するが如し」と述べられ、釈宗演老師はここを「精神上のこの獅子王が一たび吼えるというと、一切の煩瑣なる念、懐疑の念、煩悶の念という、そういう鼠の如きもの、いたちの様な考えは、皆死んで仕舞う」と仰られております。鼠の如きもの、いたちの様な考えが小心です。それを獅子吼のような坐禅で断切っていくのです。そしてその後に現れる心が大心です。
「此の心は、虚空のかぎりなきがごとし。是れ即ち一切衆生の我々の上に、元来そなはりたる本性なり」
大空に限りがなく一切のものの上にあるように、この大いなる心というものも元来、我々一人一人の全てにおいて備わっているものです。禅修行ではこの認識を手に取る様にハッキリさせることを最初の関門とします。
「しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におぼれて、此の大心を見ることをしらず、色々わけへだての心あるゆえに、有無の二つにまよひ、生死の二つに隔てられ、いろいろに顛倒迷妄するなり」
我々は知らずのうちに、小心である妄想分別で判断してしまいがちです。そして、知らずのうちに大心で判断してもいます。小心で心が満たされている時は大心は現れません。同じように大心で心が満たされている時は小心は姿を消します。顛倒迷妄する時は小心で心が満たされているだけなのです。
いかがでしたか。一休禅師は経題の「摩訶」についてここまで提唱されます。頓智の一休さんというのは、どうやら創作のようです。しかし、それを彷彿させるような切れ味ではありませんか。どうぞ、何度も読み替えしてみてください。
参考文献
一休法語集註解 般若心経提唱 青年修養会編(国立国会図書館デジタルコレクション)
禅海一瀾講話 釈 宗演 p.72(岩波文庫)
(一休禅師法語の原文)
般若とは、智慧といへる義なり。このはんにゃの智慧とは、凡夫の思へる分別才覚ありて、小ざかしきをいふにあらず。この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、佛道に入ることをしらず。さるによって、小智は菩提のさまたげといへるも此の意をもっていふなり。眞實般若の智といふは、妄想分別をはなれて、大虚空の如くなるをいふなり。三世の諸佛、その外もろもろの智識たちも、皆この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。
(解説)
「般若とは、智慧といへる義なり。このはんにゃの智慧とは、凡夫の思へる分別才覚ありて、小ざかしきをいふにあらず。」 前回は経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」のうち、「摩訶」について一休禅師が述べられたところをお話しました。今回は引き続き経題の「般若」について一休禅師が述べられておりますので、それを読みたいと思います。
般若とはインドの言葉で智慧という意味であるが、この智慧は、普通考えられているような分別才覚、つまり頭の回転が速いということでしょうか、そういうものではありませんと申されております。むしろ、仏法では小ざかしいと否定的に捉えているのだと申されています。どんなに知恵者といわれても、それだけでは小利口にすぎないと言うのです。一休禅師はその理由を次に述べられます。
「この分別才覚は、世間の智慧なれば、小智にて大智にあらずして、世智弁聡とて、佛道に入ることをしらず。さるによって、小智は菩提のさまたげといへるも此の意をもっていふなり。」 ここで一休禅師は智慧には二種類あることを示されております。小智と大智です。日常、普通に使うのは小智であり、この小智のほかに大智と呼ぶ智慧のあることを知って欲しいと申されているのです。この大智に気づかせてくれるのが仏法です。大智のあること、そしてそれが何なのか分かれば、その対比としての小智にどれだけ振り回されていたかがハッキリ分かります。仏法を学ぶことによって、小智により小さく固まった自分が解放され、大きな心で、ゆったりと、しかも世間と乖離することもなければ、こんなに自由なことはありません。
しかし、ここで一休禅師は、頭の回転の良いことが還って仏法を学ぶ妨げとなると申されております。仏道に入るのに妨げとなるものが八つあるといわれます。そのうちの一つが世智弁聡です。ここでいう小智です。世智弁聡で世間をうまく渡ることができれば、あまり苦しまないわけですが、反面、人生を真剣に考える機会を失っているとも考えられます。軽いということです。愚鈍で正直な人は、己のことから目をそらすことができませんので苦しむのです。苦労は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むと言われます。苦しむ人はこの意味で幸いなのです。
「眞實般若の智といふは、妄想分別をはなれて、大虚空の如くなるをいふなり。」
この大智を般若というのですが、この大智が発明しますと妄想分別などいっぺんに吹き飛んでしまいます。その時、心は大空のようにカラットしてゆったりしてきます。それを、坐禅を中心とした修行で成し遂げようというのが禅です。
「三世の諸佛、その外もろもろの智識たちも、皆この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。」
過去、現在、未来の諸仏、もろもろの祖師方もこの大智を開発して佛道を成就するのだと断言されるのです。
これは、三世諸仏、祖師方も大智の開発前は我々凡夫と同じであることを意味します。それは、我々も大智に気づけば三世の諸仏や祖師方となんら変わらないとの力強い断言でもあります。実際はこの智慧の開発が佛道の始まりですので、すぐに、諸佛と同じというわけにはいきませんが、祖師方と手を取り合って進んで行く、その末席ぐらいは許されるだろうということです。これを、なにかのお伽噺、三世の諸佛を特殊な人と考えてはいけません。そのように考えた瞬間に智慧の開発はあり得ません。佛道は、人として未熟な自分の為にあるのです。三世の諸佛は将来の我々の姿なのです。この智慧が開発されると、自分とは何者なのか、そして世界とは何なのかということが分かるようになります。そしてそれが分かると、どのように生きるのが良いかということも分かるのです。そこを「この智慧をもって、無上菩提をさとりたまふなり。」と申されます。
一休禅師のお話は一般の人に向けてのお話なのですが、どこにも妥協がありません。そのため、始めは分かったようでも、結局何なのかという思いが残ると思います。それを坐禅、入室により、明確にして、誰が何を言おうがこれだと確信していくのが禅修行です。
(続く)
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編
国立国会図書館デジタルコレクション
「悟りと解脱」 玉城康四朗 法蔵館
(一休禅師法語の原文)
波羅蜜多とは、 彼岸にいたるという 意 なり。彼岸とは、かの岸とよめり。凡夫は迷えるゆえに生死苦界をわたる事をしらず、生死流転するを此岸というなり。此岸とはこの岸とよめり。佛ぼさつは般若の智慧によって、一切の諸法はみな空にして元より生死もしらず、滅しもせずという道理をさとって、はんにゃの船にのりて生死の苦界を渡り過ぎて不生不滅の涅槃の岸にいたるを彼岸とはいうなり。則ち涅槃は、生ぜず滅せずという義なり。ここに至るを極楽というなり。
前回までは解説という形でご説明していましたが、今回より私の意訳ともつかない拙訳をご紹介することにしました。
(訳)
波羅蜜多というのは彼岸に至るという意味です。彼岸とは向こう岸ということです。我々凡人は生と死、死と生というように物事を分けて見る癖がついています。この癖の取れた目で見ると世界はまた違って見えるのですが、それを知らないものですから悩み苦しみ多き世界にしてしまうのです。このような世界を此岸といいます。こちら岸という意味です。ところが仏様、菩薩と呼ばれる方は世の中の真実を見る力を備えておられます。これを仏教では般若の智慧と申します。
それは一切の物事の大本は空であり、もともと生と死、死と生というように分かれているものではないという道理のことです。分かれていないばかりか、死滅することもないのだという道理です。この般若の智慧を開発し迷いから脱却することを彼岸に至るといいます。そしてこれを 涅槃ともいいます。不生不滅の世界です。ここを極楽ともいいます。
(解説)
我々はどうしても世界を二つに分けて見る癖がついています。好きだ嫌いだ、良い悪いです。これは相対の世界です。相対の世界は認識できる世界です。見える世界、聞くことのできる世界です。仏法はこの相対の世界の大本をあぶり出し、不二、分離のない世界を説きます。どうして分離のない世界かというと、一切の物事の大本が空だからです。
それでは空とは何か? ということですが、般若心経はこの空を説明していません。
ですから、般若心経を読んで理解しようとしても理解しづらいのです。理解できないというと言いすぎですが、肝心な大本が分からないから、結局よく分からない。
実は説明しないのではなく、説明できないのです。説明できなくても分かっている者同士は分かるということは世の中たくさんありますね。その類です。ですから、本日のところも、「生死だが不生不滅だ」というように、見えているだけの世界を否定して何とか分かってもらおうとしているのです。
不生不滅、分離のない世界について聞いたこともない、あるいはそんなことを聞いたことはあるが、小難しくてスマホいじって繋がっているんだからいいじゃないかとなってしまうと問題だと思います。はじめからいつもの世界だけに閉じこもってしまうことですが、これは大変楽なことです。違った世界を知ろうとすればするほど努力が要ります。自分の世界にとじこもって排他的にしているほうがその時は精神的に楽です。ここを一休さんは生死苦界をわたることを知らずと申されております。
今、生死を生に対する死、死に対する生というように物事を分離することの代表として説明しました。それでは、生きる、死ぬそのものについてはどうでしょうか。
これは「自分はどこから来たのか、死んだらどこへ行くのか」という根本問題です。このどこが一切の物事の大本です。そしてそれを空と呼ぶのです。仏法における修行はこの空の体得に始まります。それはお釈迦様が覚られたことであります。この空から般若の智慧がはたらき、現実の世界で仏法が活き活きとしてきます。ですから、この空の体得を特に禅では強く求めます。
しかし、ものごとを分けてみるという我々の癖は相当に強いものです。また本能に根付いていますから相当にしつこいのです。
しかし、大本の空から見ると生と死の連続、分離のない世界というものが分かってまいります。このとき、「自分はどこから来てどこへ行くのか」の問題も自ずと解決します。
ここを一休さんは不生不滅と申されております。
一休さんは般若心経を真向から説かれております。さらに比喩も須いることもされません。ですから一見さらっと、やさしく説かれているように感じられるかもしれませんが、一字一句を吟味して使われていると感心します。その心をくみ取ることがこの説法を学ぶということだと思います。そのためには読んで頭で理解したのではなく坐禅して体に染みこませる必要があると思います。
合掌
(続く)
参考文献:「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(一休禅師法語の原文)
おほよそ人間の種々無量の苦をうくるは、 生死 のふたつに 因 ってなり。 生 を願ふては楽を好み、死をいとひては苦をうくる。たのしみを求めてもあたはざれば、楽しみもくるしみとなる。さるほどに、般若の智慧をもって、自心は、もとより空にして生ぜず滅せず、ひっきょう 空 なりと悟れば、 生死 のいとふべきこともなく、楽しみもなく、之を 真 の極楽といふなり。ここにいたるを、 彼岸 に到るというふなり。
拙訳
我々が際限のない悩み、苦しみを受ける根本的な原因は、例えば生と死に代表されるように相反する概念で物事を判断するからである。
普通人は誰でも長く生きたいと思う。しかも、できるだけ楽しく生きたいと思う。だから死を忌み嫌うけれども、死は避けられないから嫌えば嫌うほど恐怖が襲ってくる。
より満足な生活を送りたいと思っても叶わなければ、それが元で苦しむこともあろう。
仏法の説く般若の智慧を自分の中に開発して、自分というものが本来空であり、不生不滅であると観ずれば、生に執着して死を忌み嫌うことも止むのである。これを本当の極楽というのであり、彼岸に到るというのである。
解説
一休さんが経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」について語るところの続きです。
生死ということで二つの相反する概念を代表させています。ですから正義でも、善悪でも、良否でも貴方と私でもよいのです。一休さんは、我々が悩み苦しむのは、この二つに分かれるからだと仰っておられます。
そもそも二つではないのです。幾千、幾万、無数と分かれているのです。この世の中の物事はどれ一つ取っても同じものはありません。同じようなものはありますが同じではないのです。
ですから二つというのは最小限です。
正義、悪だと判別してもたった二つにしか分類していないのですから、この二つで現実が収まるはずがないのです。概念を狭くして判断することに無理があるのです。無理が苦になるのは当たり前です。
世の中は千差万別ですから、放っておくと無秩序になって収まりがつかなくなる。だからルールを設けてそれに従おうと決めています。そのルールが二者択一を迫ることがあるのです。
それでは「分かれることに意味があるのか」、「分かれていなくても幸せか」と考えてみましょう。隣の人と私が全く同じだったら、個性がなかったら、随分寂しいですね。味気ないですね。おそらく生きる価値もなくなってしまうのではないでしょうか。
分かれるということは種の保存にとって大切なことですが、そこまで考えなくても自分がなくなってしまったらぞっとしますね。
仏法では平等と差別ということを追及します。この平等と差別も生死と同じ二つの概念であることに注意してください。そして仏法では平等即差別、差別即平等と二つを認めながらそれらは同じものを別の角度で見た事として捉えます。
そして究極的には万事が一つと捉えます。そこに対立の解消を見るのです。分かれているのを一つにするのではなく、分かれたまま一つにみていくから解消するのです。
我々は生物として最初に誕生した時にすでに外部と内部とを細胞膜により分けました。
こうしなければ、自分を守ることができないからです。誕生した時に内外を分離する仕切りを作ったのです。こう考えると、分かれるということは良くも悪くもないことになることがわかりますね。
そして自分が内外を分離して自身を守っているのと同じように自分以外のものもそのようにして守っているのだと気付いたらどうでしょうか。自分だけと考えるのは大変恥ずかしい思いがしてまいりませんか。
生物は外壁を作るだけでなく、外部から食物を取り入れて排泄して生存してきました。その意味では外部が存在しての自分だということになります。外部は敵でもあり味方でもあるわけです。
このように気づいていくことは結局「自分」というものが無くなっていくということになりませんか。
自分と他人の関係で、それをどのように見るかでその仕切りが無くなってくる。これを徹底するのが禅の修行です。
徹底すると仕切りが無くなるだけでなく、その仕切りの内と外にいた自分や他人も無くなってまいります。
その徹底して何も無くなったところを「空」と称しておりますが、一休さんはそこにもたらされる心境を「生死のいとふべきこともなく、楽しみもなく、之を真の極楽といふなり。ここにいたるを、彼岸に到るというふなり」と仰せられております。
合掌
続く
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編 国立国会図書館デジタルコレクション
(一休禅師法語の原文)
到るといへば、田舎より京へのぼるやうなことにはあらず、一念生ぜざれば其の立處すなはち西方極楽なり。
あるひは、自心の 外 に極楽を求めなば、いよいよ遠く十萬億土をへだてて、終にいたることあたはず。
自心すなはち佛たることをさとれば、阿弥陀をねがふに及ばず、自心の外に浄土なし、かくいふとも求むべからず。
拙訳
(彼岸に)到ると言うと、田舎から都へ上京するように、覚りの境涯に上り詰めるように勘違いするが、そうではないのである。それは念を起さない瞬間のことで、そこに、仏様の世界が活き活きと現れているのである。
だから仏様の世界を求めれば求めるほど離れてしまう。求めること自体、それが念だからである。
念の起こらない心が仏様であることを自覚した時、阿弥陀仏、浄土が元から自分の中にあったことを知るのである。
こう聞いたからと、自分の中に仏様を見ようと思ってはならない。それが念を起すことであるからである。
解説
ここに禅修行の根本の根本が表れております。また、これこそが、お釈迦様が八十年説き続けたことなのです。是れ以外に仏法はありません。
「一念生ぜざれば其の立處すなはち西方極楽なり」これ以外に仏法はなく、従って修行の方法もないのです。ひたすら無―っつとやることが一念生じないということです。
それでは、どうしてひたすら無―っつとやった時に仏様の世界が現れるのでしょうか。
それは、とりもなおさず、我々が仏様だからです。
本来、仏様の心を持ってこの世の中に出現してきたのですが、一方でこれも仏様の心の一部ですが、生き抜いていくという強い生命力も与えられてきたのです。生き抜くことは、極論を言えば、他人を蹴落としてでも、ということです。実際そのくらい強い生命力なのです。
この生命力だけであれば、問題は大きくならないのだと思います。しかし、その上に「よりよく」という言葉が付いてくるのです。「よりよく生きる」他人よりもです。あるいは、過去よりもです。これが無限に続いてしまうところに問題の大きさがあるのです。
この「よりよく生きたい」という念が渦巻いて大きくなっていくことを妄想といいます。
ですから、この一念生ぜざればの一念とは、この渦巻いている妄想のことです。
この生命力はもともと仏様の心から生まれてきたのですが、それが自己増殖して妄想となって本来の仏様の心を覆い隠してしまうのです。そして「我々は強く念じた通りになっていく」というこれも仏様の心の一部ですが、このために、どんどん妄想へ傾いてしまうのです。
困ったことに、妄想は自分の中で正当化していきます。ですから本人はそれが妄想だとは思わないのです。むしろ、向上しているとすら思ってしまいます。
そして究極の結果が出た時に気付く、しかし、その時はすでに遅し、ということになりかねないのです。
ところが、この妄想を断ち切り、本来の仏様の心を見る方法もきちんと仏様の心は示して下さっています。それが、一番簡単なのは坐禅です。
皆さんは坐禅というと難しいと思われていませんか。難しいことは何もないのです。至ってシンプルです。無―っつとやるだけなのです。
それだけのことですが、どうも、昔から無念無想とか、心頭滅却すれば火もまた涼しなどと言われるものですから、そういう境地にならないと坐禅にならないと思いこんでいるのです。それらは結果です。
坐禅するとすぐに、いろいろな念が出ては消え、消えてはまた出るということに気付きます。
それをほっとけばいいのです。こちらは、それはそれとして呼吸を調えながら、無―っ、無―っとやっていればいいのです。
念が出ても出なくても無―っとやっているのです。拙訳で念を起さない瞬間といいました。無―っとやっている時の瞬間は念が起きていないのです。
しかし、それは決して自覚できません。自覚するというのは、念が起きていることです。念の起きている時に念の起きていない瞬間などありえません。念の起きていない瞬間は自覚できないのです。強いて言えば、後で、あれはそうだったのかな、位のものです。
念の起こらない瞬間というのは妄想の消えている瞬間です。仏様だけの世界です。それが如実に表れているのです。
それを、なんらかのキッカケで自覚するのです。時節の因縁が働くのを待つのです。
これが一応の理屈ですが、実際には、この念を切るということが大変難しい。どうしても、結果を求めてしまうのです。ところが求めれば求めるほど遠ざかるのですから、ますます苦心する。このために、志のある人でも無―っということに耐え切れなくなって止めてしまうのです。
学校、仕事でもやっただけの見返りがあります。理屈は理解しても、心情として受け付けないのです。
しかし、この苦しいというところが一番の山なのです。ああだめだ、となった時が山なのです。
ここを超えるのはたった一つのこと。自分の懺悔です。懺悔というと大げさに聞こえるかもしれませんが、自分はこのまま死んでしまっていいのだろうかと自分を見つめることです。
どん底にいる時が最も強い衝動になります。
この懺悔の固まりになった時が外に求めないという時なのです。
合掌
続く
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編 国立国会図書館デジタルコレクション
(一休禅師法語の原文)
自惑をもって自心を求むる道理なきによつてなり。たとへば、我が目とわが目を見ざるが如し。たとへば、宝を手に持ちながら、うしなひたりとおもふは、迷ふが故なり。
自心元来ほとけなるを、外にたずね、あるひは、自心の上に於てもとむるは、失なはざる宝を失なへりとおもふが如し。
ただ、尋ねもとめず、捨てず取らざれば、おのづから佛の心にかなふなり。
拙訳
(修行に励んでも、悟ろう、悟ろうと一生懸命になればなるほど遠ざかってしまう)
迷っている間は何をどのように思っても全て迷いです。たまたま、悟りと同じことを感じても、それは迷いの中の出来事なのです。まだ本当のことが分からない間は求めても無理なのです。それは自分の目で自分の目が見られないのと同じで、もともと不可能なのです。自心仏と、理屈ではわかっても、どうしても、腹に落ちない。だから、あるときは、その通りと感じるけれども、次には、あれ、あの感じはどこにいったのかな?となるのです。
自分が仏様であることを悟ろう悟ろうとするのは、迷っていることの裏返しです。何かを手に入れよう、手に入れようと必死になっている間は全く得られなかったのに、すっかり諦めたときになって、あれ、と手に入ることがあります。それはもともとあったものだからです。求めている間はそれに気づかないのです。
求めもしない、さりとて捨てもしないというところにおれば、そのままが仏の心であります。
解説
前回に続き、自分の外に求めるな、ということを強調しております。これができないと、禅は始まらないからなのです。
禅といえば坐禅と皆さんは思っていらっしゃると思います。しかし、坐禅すれば禅を行っていると勘違いされている方も多いのです。
坐禅会で、初めて坐禅をします、という方がいらっしゃいます。その方に一休さんのいうことを説明しても難しいので、姿勢や呼吸、数息観のことを中心に説明しますが、それができれば坐禅かというと、それはごくごく一部にしか過ぎないのです。どんなに立派な坐相であってもです。
そこで、坐禅の形ができたら、今度はそこに魂を入れて欲しいのです。それは一休さんも申されている通り、「尋ねず、捨てず」というところです。
これのない坐禅は禅宗の坐禅ではないのです。
「捨てず」というのは分かりやすいと思います。根気よく続けるということです。分かってはいるが続けるのが難しいことは誰も承知だと思います。
続けられないのは続けるための原動力が小さいのではありませんか。問題にぶち当たって、自分の心の中を隙間風が通り抜けて、居ても立っても居られず、坐禅せざるを得ないとなって坐禅するのと、なんとなく、坐禅でもしてみるか、では原動力が違うのです。
鉄舟会では「一人でも多くの人に坐禅を」と標榜して「坐禅と法話の会」を行っております。これは禅宗でいう「一箇半箇でもよいから打ち出す」とは全く正反対のことです。
しかし本当のところを知らなければ、一箇も半箇もあり得ないわけですから、広さも必要だと思っております。
さて、「捨てず」というところは一応理屈の上でも分かります。ところが、「尋ねず」というところが理屈の上でも難しい。これは、「捨てず」が出来た上での「尋ねず」であることはいうまでもありません。誰しも自分をなんとかしたいと真剣になればなるほど、実感として何かを掴みたいのです。明日の修行の糧になるような何ものかを掴みたいのです。これは人情です。這えば立て、立てば歩めです。成長の実感が欲しいのです。真剣な人になればなるほど、この傾向が出ます。
ところが、この実感が掴めない。だから、その内、実感らしいものを妄想で作り上げて、これではないか?と錯覚して満足しようとする。これは人情です。
あるいは、坐禅を長く続けていれば、そのうち、境涯も上がって行くのだろうと思って続けるというようなことになります。
この二つは典型的な「尋ねる」ですが、自分の問題は一向に片付かない。そこで不信感や自己嫌悪に陥って段々坐禅会からも足が遠のいていくのです。
大森老師はよく蚊弟子ということを言われたそうです。蚊の出るころに道場に来て、蚊のいなくなるころに道場に来なくなる。坐禅体験ということで、これに意味がないとは思いませんが、万事がこの調子だと価値ある命を無駄に捨てていると言っても過言ではないと思います。
「尋ねず」というのは尋ねることをするなと言っているのではありません。坐る時は一切の「尋ね」を遮断しろと言っているのです。念を発せず坐禅そのものになることです。
しかし、これが納得できたとしても、今度は別の尋ねが出ます。坐禅中、一切の「尋ねず」ができたら一体なにが現れるのか?という疑問が生じます。答えは簡単です。「仏性です」と。しかし、仏性が分かっていませんから「仏性とはなんですか?」ということになります。そして答えは「それには一切尋ねずでやれ」とまた元に戻ってしまうのです。グルグル回ってしまうのです。
それでは、どうしたら良いのか。グルグル回ってしまうのを打破するために人の手を借りる必要があります。同じ経験をもってこの「尋ね」を断ち切ってきた先輩の力を借りるのです。
「入(につ)室(しつ)参(さん)禅(ぜん)」という言葉を聞いたことがありますでしょう。公案を拈(ねん)提(てい)して老師にそれを点検していただく、その過程で先ほどのグルグルというところを断ち切っていくのです。
入室参禅をするということは接心に参加するということでもあります。朝四時から夜の十一時までを使って食事以外は坐禅、入室参禅、拈(ねん)提(てい)以外なにも行わないのです。これを数日繰り返します。やってみれば分かりますが、この強制された時間の中に身を置いていくと、「尋ねず」ということになって行かざるを得ません。
考えては参禅で否定され、否定されては考えるということを何度も何度も繰り返していくうちに、考えること自体が止まってしまうのです。
本当のところを掴もうと思えば、入室参禅は欠かせません。 合掌
続く
参考文献:「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(一休禅師法語の原文)
心経(しんぎょう)とは、すなはち般若(はんにゃ)の心なり。此の般若の心は、一切衆生もとよりそなはりたる心なり。
愚痴無明のくらきにもくらまされず、煩悩妄想のけがれにもそまず。元より生ぜず滅せず、故に生死の流(る)転(てん)をもうけず、有にあらず無にあらず、中道にも止(とどま)まらず、本来空寂にして、取る事もあたはず、詞(ことば)にもいひがたく、心をもって量(はか)りがたし。一切の想をはなれたり。釈尊一代の間、色々にとき給へども、終にとき盡(つく)すこと能はず。神妙ふしぎなるもの。
拙訳
(ここまで一休禅師は経題の説明をされて参りました。今回と次回でそれが終わりになります。今回は心経の心ということについて説かれます)
心経の心というのは、普通にいう心ではありません。般若の心ということです。(般若の説明は(二)のところでされておりますが、智慧ということです。ですから般若の心というのは、仏法でいうところの智慧に開かれた心ということです)
この智慧に開かれた心は、実は誰もが生まれながらに持っているものなのです。気に入らないとフクレテみたり、自分のことに夢中で他人のことなど、おかまいなしとなっても、それにくらまされることもなく、また少しも汚れることはないのです。
この心は始まりもなく、終わりもない生き通しの心です。その姿を拝見することも説明することもできませんが、ジッと私どもの大本として静かに佇んでおられるのです。
ですから、お釈迦様もこれを説明することが、ついに出来なかったといわれるのです。
解説
さて、いよいよ経題(お経のお名前)の説明の最後から二番目となりました。「摩訶般若波羅蜜多心経」の「心経」の「心」についての説明になります。
クリスマスの季節になると、クリスマスキャロルをいつも思い出します。欲張りのスクルージ爺さんがクリスマスの晩に夢を見て、自分の強欲を恥じたのですが、それから人がまるで入れ替わったかのように温かい心で奉仕したという話です。ストーリーは単純ですが、この話に共感して思わず涙ぐんだ人も多いのではないでしょうか。
それでは、この温かい心はこの時に生じたものでしょうか。答えはノーですね。もともと、スクルージ爺さんの心の中にこの温かい心はあったのです。それが強欲に覆い隠されて出てこなかっただけです。
この温かい心は強欲にくらまされることもなく、汚されることもなくスクルージ爺さんの心の奥深くに佇んでいたのです。だから一晩で表に出ることがてきたのです。
また、スクルージ爺さんの心だけにあるのではなく、どの人にも共通だと認識できますね。
この般若の心というのは、今お話したことに似ています。誰にでもある。しかし、強欲だけでなく、忙しさ、騒がしさ、好き、嫌い、美しい、醜いなどの普通の心の為に覆われて表に出てこないだけなのです。
そして通常の心にくらまされることもなく、汚されることもなく誰にでも存在しているのです。
根源、本源といっても良いと思います。それを般若の心と称しているのです。温かい心よりもっと、ずっと奥深いところにありますので、スクルージ爺さんのようには出てこれないだけなのです。出て来るには、我々の普通の心の何重にもある壁を乗り越えてこなければならないのです。
この事を初めに気が付かれたのはお釈迦様ですが、その後仏法の修行によりこの心に気づいた人は一人や二人ではありません。千人万人でもありません。もっともっと多いのです。
しかし、その人口比率は0.01パーセントとかもっともっと低いのでしょう。ですから温かい心のように誰もが気づく心とは違って、多くの人がその存在に気が付きません。
世界人口を80億人とすると、0.01パーセントは80万人です。決して少ない人数ではありませんが、比率となると1万人に一人ですから、普通の人には、にわかに、信じられないだけなのです。
お釈迦様は初めにこのことに気が付いた時、説明するのをためらったとのことです。それは、誰も信じられないと思ったからです。事実お釈迦様のことを知る人たちに説明しましたが、やはり誰も信じなかったそうです。しかし、以前のお釈迦様と様子が異なることに気付き、その教えを聞いたそうです。
「般若心経」とは、そのような心について説かれたお経ということです。「智慧のお経」と呼ばれます。
合掌
続く
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編 国立国会図書館デジタルコレクション
(一休禅師法語の原文)
(中略)
佛この経を説き給うことは、般若本覚の知恵をもって一切の衆生をして妄心妄念を除き正さしめて生死大海のこの岸をわかれて、不生不滅の涅槃の彼岸にいたらしめて、衆生をして本心本性を見せしめんがためなり。この故に般若波羅蜜多心経と名付くるなり。
拙訳
仏様がこの般若心経というお経を人々に説かれるのは、すべての人が本来もっている佛様の知恵(般若の知恵)とはどういうものかを明らかにすることによって、一切の人々の妄想を除いて、すったもんだで終わるのではなく、本来の知恵を働かせた一生を送らせるためなのです。般若波羅蜜多心経とはそのことを説くお経なのです。
解説
ここまでは、お経の題名の「般若波羅蜜多心経」について説明して来られたのですが、ここまでで般若心経の内容を尽くしております。また、一休さんがおっしゃりたいことも全て網羅されていると思います。
さて、内容のうち、単語の解説は第一回から順次してきましたので、そちらを参考にされてください。ここでは「般若本覚」のところだけを説明します。
「本覚」というのは、「始覚」に対する言葉で、従来いろいろと議論されてきました。しかし、それらの議論はさておき、「本覚」というのは、人はもともと悟っている、ということです。
修行する前にもう悟っている。それが生きんがための煩悩、妄想に遮られ自覚できないのだ、という考え方です。大乗仏教の精神です。
雲水の坐禅の姿を見てください。雲水が坐禅三昧になっている姿を見て、ああ、仏様がおられる、と感じたことはありませんか。
あの姿は雲水だからそうなのではありません。坐禅によって、作務によって、食事作法によって、すべてのことがそうですが、日常において己なきのところになっている姿そのものが佛さまの姿をとっているのです。
ですから、一寸坐れば一寸の佛と申しますが、それは一瞬でも己なければ,その一瞬は佛さま、ということなのです。
もともと、佛さまと同じでなければ、どうして佛様の姿になることができましょうか.
佛さまは日常行住坐臥、常時、佛さまなのです。我々は残念ながら、己なきに至った一瞬の間だけ佛さまなのです。それだけが聖と凡の違いです。そして、その一瞬が行住坐臥常時に至ることが修行なのです。
この一休さんの言葉は我々の修行に勇猛心をもたらしてくださるものです。復唱しておりますとなにやら不思議と安心感が増してきます。どうぞ、皆様も復唱してみてください。
これで、一休さんの般若心経提唱は終わりにします。
原文ではこの後、般若心経の内容について一字一句ご説明があります。是非原文にあたって読まれてください。
合掌
了
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編 国立国会図書館デジタルコレクション
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