返本とは修行する前のところに戻ってくるということです。そして日常のところに、修行前までは見抜けなかった物事の本質、本源を発見しているので還源といいます。
本源から見ますと、すべてが光を放っていることがわかります。そして、その光が無限の過去から無限の未来にわたっていることも分かります。また空間的に、ここから無限の彼方まで及んでいることも分かります。
時間的にも空間的にも貫いているのです。
よく我を忘れるということを言います。夢中になっているときのことですが、子供を見ているといつもこんな状態です。それでは、それはここでいう人を忘れるということでしょうか。
前回の忘牛存人は牛に全幅の信頼を置いているところです。牛とは道です。今、自分が歩んでいる道への不安不信というものが無いところです。
確固たる足取りで道を進んでいます。この道の先の明かりを確信しているのです。ですからその道と自分とは一つになっているのです。
いくつもいくつも道が見えていたり、枝分かれすることもないのです。一本の大きな道があることを確信しています。迷っていないところです。ぐいぐい進んでいる
禅の本に書いてあることが理解、納得できないことを十牛図の言葉を借りれば「法に二法あり」となります。つまり、禅の本に書いてある法と自分で理解した法のイメージの二つが存在するということです。
先ほども申しましたように、本に書いてあることに共感でき、自分もそうだと思う、自分の体験からこれはその通りだ、と言えることができれば書かれていることと、自分とは一つになっているわけで、二つの法はないわけです。ここを十牛図では「法に二法なし」と表現しているのです。
「坐禅しなければ」という思いで坐禅している間は苦痛なのです。その苦痛を和らげる一つが道友です。先輩方も皆、同じ経験をして十年、二十年と修行を続けているのです。そういう方の一言が苦しいときの一服の清涼剤になります。
その意味で道場に来ることは大切なことです。オンラインでも一部そういうことはできますが、道場で直接には敵いまぜん。
鉄舟会では草創期の大森曹玄老師の頃より直心影流法定の形を稽古するのが通例となっている。会名由来の山岡鉄舟居士もまた大変な剣の達人であった事などを考えれば、この居士禅道場の剣道にも今少し脚光が当たっても良いのではなかろうか、と思ったのが、この記事を書く最初の動機であった。...
自我というのは、本質的にどこから生じて来るかというと、我々の持つ「生きる」という強烈な本能からだと思います。この本能なくして人類の存在はありえないのです。また今語っているように禅もありえないのです。ですから、ある意味すべての活動の源と云えるわけです。その意味でこの自我意識は先ほどのように否定的でもなければ、また肯定的でもないのです。
「自分の中に向かっていく」というのは自分とは何か、それは今生きて、考え、行動している自分ではなく、それを突き動かしているもの、自分の根源を追求していくことです。これが禅です。
従いまして、これが毎日、全ての時間でできれば僧堂と何のかわりもありません。そして、これは可能であり、在家修行者が日常の喧騒と並行して成し遂げなければならないことなのです。もちろんフルタイムで可能ではありません。重点を郊外に置くか、都会の喧騒に置くかなのです。
岡潔先生が仰っているのですが、寺田寅彦先生が当時の松山高校に在学だった時、夏目漱石先生が教壇に立っておられた。その時に漱石の家に行って質問をしたのです。
「俳句とはどんなものなのでしょうか」
すると、漱石先生は、
「しぐるるや黒木つむ家(や)の窓明り」(凡兆)のようなものであると答えたのです。
しぐれの音無き雨音が聞こえるようではありませんか。そして雨にしっとり濡れて黒くなった薪に窓明かりと、なんともいえない懐かしさが感じられませんか。
自分の悩み、疑問を晴らしたいと誰もが思うわけですが、いざそこにぶつかると、どうしたら良いかわからない。それでスマホで友達に尋ねる。ネットにある意見にとりついてしまうこともある。
情報の量は過去に比べて激増しましたが内容はほとんど変わりない。そして自分の問題を本質的に解決してくれるものも昔から変わらない。変わったのは圧倒的な情報量とその見栄えの中に埋もれてしまっていることです。