鉄舟再復刊56号 巻頭言

打成一片

高歩院 垣堺玄了

 芥川龍之介の「戯作三昧」には滝沢馬琴のある日の心の動きが巧みに描かれております。

 

 場面は朝風呂からはじまります。始めに馬琴はそこで出会った愛読者と話をした後、自分の作品の不評をたまたま聞き、気を揉みます。その後版元から新作の催促を受け、読者の手紙に返事も書き、訪れた南画家、渡辺崋山の相手もします。その中で自分の思うようにならないことに苛立ち葛藤するのです。その後「八犬伝」の続きに取り掛かろうとするのですが集中できません。そんな時に仏参から戻った孫と次のようなやりとりをします。本文を抄訳してみます。

 

 「お祖父様唯今」

 「おお、よく早く帰って来たな」

この言葉とともに、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のような悦びが輝いた。

 「あのね、お祖父様にね」「よく毎日」

 「うん、よく毎日?」

 「ご勉強なさい」

 

馬琴はとうとう噴出した。が、笑いの中ですぐまた語をつぎながら

 「それから?」

 「それからーーーーええとーーー癇癪を起しちゃいけませんって」

 「おやおや、それっきりかい」

 「まだあるの」

 「ええとーーーお祖父様はね。今にもっとえらくなりますからね」

 「えらくなりますから?」

 「ですからね。よくね。辛抱おしなさいって」

 「辛抱しているよ」

 

馬琴は思わず、真面目な声を出した。

 「もっともっとようく辛抱なさいって」

 「誰がそんなことを言ったのだい」

 「それはね」「あのね」

 「うん」

 「浅草の観音様がそう言ったの」

 こう言うとともに、この子供は、家内中に聞えそうな声で、嬉しそうに笑いながら、馬琴につかまるのを恐れるように、急いで彼の側から飛び退いた。そうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるようにして茶の間の方へ逃げて行った。

 馬琴の心に●●●●●厳粛な何物かが刹那に閃いたのは●●●●●●●●●●●●●●●この時である●●●●●●

 彼の唇には、幸福な微笑が浮かんだ。それとともに彼の眼には、いつか涙が一ぱいになった。

 

 「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ」

 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑いながら、子供のように頷いた。

 

 そしてこの後に戯作三昧に入ります。

 著述に没頭する直接のきっかけは浅草観音様のお告げですが、その前のあどけない孫の言葉に馬琴は心を開いております。

 外部から解放され開かれた心が自分の内部に向かって統一され三昧に入る。その時に後で気づけば対象と一つになっている。頑な心を持って統一してもそれは執着にすぎません。心が開かれれば内も外もありません。その開かれた心が強く統一されて三昧となります。それを内外打成一片と云います。

 

参考文献 「河童・戯作三昧」 芥川龍之介  角川文庫