自惑をもって自心を求むる道理なきによつてなり。たとへば、我が目とわが目を見ざるが如し。たとへば、宝を手に持ちながら、うしなひたりとおもふは、迷ふが故なり。
自心元来ほとけなるを、外にたずね、あるひは、自心の上に於てもとむるは、失なはざる宝を失なへりとおもふが如し。
ただ、尋ねもとめず、捨てず取らざれば、おのづから佛の心にかなふなり。
拙訳
(修行に励んでも、悟ろう、悟ろうと一生懸命になればなるほど遠ざかってしまう)
迷っている間は何をどのように思っても全て迷いです。たまたま、悟りと同じことを感じても、それは迷いの中の出来事なのです。まだ本当のことが分からない間は求めても無理なのです。それは自分の目で自分の目が見られないのと同じで、もともと不可能なのです。自心仏と、理屈ではわかっても、どうしても、腹に落ちない。だから、あるときは、その通りと感じるけれども、次には、あれ、あの感じはどこにいったのかな?となるのです。
自分が仏様であることを悟ろう悟ろうとするのは、迷っていることの裏返しです。何かを手に入れよう、手に入れようと必死になっている間は全く得られなかったのに、すっかり諦めたときになって、あれ、と手に入ることがあります。それはもともとあったものだからです。求めている間はそれに気づかないのです。
求めもしない、さりとて捨てもしないというところにおれば、そのままが仏の心であります。
解説
前回に続き、自分の外に求めるな、ということを強調しております。これができないと、禅は始まらないからなのです。
禅といえば坐禅と皆さんは思っていらっしゃると思います。しかし、坐禅すれば禅を行っていると勘違いされている方も多いのです。
坐禅会で、初めて坐禅をします、という方がいらっしゃいます。その方に一休さんのいうことを説明しても難しいので、姿勢や呼吸、数息観のことを中心に説明しますが、それができれば坐禅かというと、それはごくごく一部にしか過ぎないのです。どんなに立派な坐相であってもです。
そこで、坐禅の形ができたら、今度はそこに魂を入れて欲しいのです。それは一休さんも申されている通り、「尋ねず、捨てず」というところです。
これのない坐禅は禅宗の坐禅ではないのです。
「捨てず」というのは分かりやすいと思います。根気よく続けるということです。分かってはいるが続けるのが難しいことは誰も承知だと思います。
続けられないのは続けるための原動力が小さいのではありませんか。問題にぶち当たって、自分の心の中を隙間風が通り抜けて、居ても立っても居られず、坐禅せざるを得ないとなって坐禅するのと、なんとなく、坐禅でもしてみるか、では原動力が違うのです。
鉄舟会では「一人でも多くの人に坐禅を」と標榜して「坐禅と法話の会」を行っております。これは禅宗でいう「一箇半箇でもよいから打ち出す」とは全く正反対のことです。
しかし本当のところを知らなければ、一箇も半箇もあり得ないわけですから、広さも必要だと思っております。
さて、「捨てず」というところは一応理屈の上でも分かります。ところが、「尋ねず」というところが理屈の上でも難しい。これは、「捨てず」が出来た上での「尋ねず」であることはいうまでもありません。誰しも自分をなんとかしたいと真剣になればなるほど、実感として何かを掴みたいのです。明日の修行の糧になるような何ものかを掴みたいのです。これは人情です。這えば立て、立てば歩めです。成長の実感が欲しいのです。真剣な人になればなるほど、この傾向が出ます。
ところが、この実感が掴めない。だから、その内、実感らしいものを妄想で作り上げて、これではないか?と錯覚して満足しようとする。これは人情です。
あるいは、坐禅を長く続けていれば、そのうち、境涯も上がって行くのだろうと思って続けるというようなことになります。
この二つは典型的な「尋ねる」ですが、自分の問題は一向に片付かない。そこで不信感や自己嫌悪に陥って段々坐禅会からも足が遠のいていくのです。
大森老師はよく蚊弟子ということを言われたそうです。蚊の出るころに道場に来て、蚊のいなくなるころに道場に来なくなる。坐禅体験ということで、これに意味がないとは思いませんが、万事がこの調子だと価値ある命を無駄に捨てていると言っても過言ではないと思います。
「尋ねず」というのは尋ねることをするなと言っているのではありません。坐る時は一切の「尋ね」を遮断しろと言っているのです。念を発せず坐禅そのものになることです。
しかし、これが納得できたとしても、今度は別の尋ねが出ます。坐禅中、一切の「尋ねず」ができたら一体なにが現れるのか?という疑問が生じます。答えは簡単です。「仏性です」と。しかし、仏性が分かっていませんから「仏性とはなんですか?」ということになります。そして答えは「それには一切尋ねずでやれ」とまた元に戻ってしまうのです。グルグル回ってしまうのです。
それでは、どうしたら良いのか。グルグル回ってしまうのを打破するために人の手を借りる必要があります。同じ経験をもってこの「尋ね」を断ち切ってきた先輩の力を借りるのです。
「 入 室 参 禅 」という言葉を聞いたことがありますでしょう。公案を 拈 提 して老師にそれを点検していただく、その過程で先ほどのグルグルというところを断ち切っていくのです。
入室参禅をするということは接心に参加するということでもあります。朝四時から夜の十一時までを使って食事以外は坐禅、入室参禅、 拈 提 以外なにも行わないのです。これを数日繰り返します。やってみれば分かりますが、この強制された時間の中に身を置いていくと、「尋ねず」ということになって行かざるを得ません。
考えては参禅で否定され、否定されては考えるということを何度も何度も繰り返していくうちに、考えること自体が止まってしまうのです。
本当のところを掴もうと思えば、入室参禅は欠かせません。
合掌
続く
参考文献:「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編(国立国会図書館デジタルコレクション)
臨済宗天龍寺派 高歩院 Kohoin
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