(中略)
佛この経を説き給うことは、般若本覚の知恵をもって一切の衆生をして妄心妄念を除き正さしめて生死大海のこの岸をわかれて、不生不滅の涅槃の彼岸にいたらしめて、衆生をして本心本性を見せしめんがためなり。この故に般若波羅蜜多心経と名付くるなり。
拙訳
仏様がこの般若心経というお経を人々に説かれるのは、すべての人が本来もっている佛様の知恵(般若の知恵)とはどういうものかを明らかにすることによって、一切の人々の妄想を除いて、すったもんだで終わるのではなく、本来の知恵を働かせた一生を送らせるためなのです。般若波羅蜜多心経とはそのことを説くお経なのです。
解説
ここまでは、お経の題名の「般若波羅蜜多心経」について説明して来られたのですが、ここまでで般若心経の内容を尽くしております。また、一休さんがおっしゃりたいことも全て網羅されていると思います。
さて、内容のうち、単語の解説は第一回から順次してきましたので、そちらを参考にされてください。ここでは「般若本覚」のところだけを説明します。
「本覚」というのは、「始覚」に対する言葉で、従来いろいろと議論されてきました。
しかし、それらの議論はさておき、「本覚」というのは、人はもともと悟っている、ということです。
修行する前にもう悟っている。それが生きんがための煩悩、妄想に遮られ自覚できないのだ、という考え方です。大乗仏教の精神です。
雲水の坐禅の姿を見てください。雲水が坐禅三昧になっている姿を見て、ああ、仏様がおられる、と感じたことはありませんか。
あの姿は雲水だからそうなのではありません。坐禅によって、作務によって、食事作法によって、すべてのことがそうですが、日常において己なきのところになっている姿そのものが佛さまの姿をとっているのです。
ですから、一寸坐れば一寸の佛と申しますが、それは一瞬でも己なければ,その一瞬は佛さま、ということなのです。もともと、佛さまと同じでなければ、どうして佛様の姿になることができましょうか.
佛さまは日常行住坐臥、常時、佛さまなのです。我々は残念ながら、己なきに至った一瞬の間だけ佛さまなのです。それだけが聖と凡の違いです。
そして、その一瞬が行住坐臥、常時に至ることが修行なのです。
この一休さんの言葉は我々の修行に勇猛心をもたらしてくださるものです。復唱しておりますとなにやら不思議と安心感が増してきます。どうぞ、皆様も復唱してみてください。
これで、一休さんの般若心経提唱は終わりにします。
原文ではこの後、般若心経の内容について一字一句ご説明があります。是非原文にあたって読まれてください。
合掌
了
参考文献
「一休法語集註解 般若心経提唱」 青年修養会編
国立国会図書館デジタルコレクション
臨済宗天龍寺派 高歩院 Kohoin
鉄舟会禅道場 Tesshukai Zen Dojo
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