再復刊53号 巻頭言

「成り切る」

高歩院 垣堺玄了

 禅でいう「成り切る」というのは、どのようなことなのでしょうか。それを端的に示している話頭があります。睦州和尚とその弟子の王常侍の話です。王常侍がある時、相見の時刻に遅くなりました。睦州和尚がその訳を尋ねましたところ王常侍は馬打毬(ポロのようなものだと思います)を見ていて遅くなりましたと正直に答えました。

 それを聞いて睦州和尚は、「人は疲れたか」と聞かれました。王常侍は「人は疲れました」と答えました。睦州和尚は更に「馬は疲れたか」と聞かれました。王常侍は「馬も疲れました」と答えました。すると今度は「露柱は疲れたか」と問われました。そばに立っていた柱は疲れたかと聞いたのです。

 王常侍は即答できず、一晩かけて翌日見解を呈したという話です。人が疲れるという感情は分かりますね。この時、その人と自分は一つです。そして、馬も疲れたなと感じることもできますね。この時、馬と自分とは一つです。しかし、露柱は疲れたかと聞かれたらどうですか。自分のことと考えることができますか? 

 

 生命はおよそ四十億年前に海底の熱水噴出口のようなところで誕生したと考えられています。その時に細胞膜を形成し、自己保存機能、複製機能を持ったと考えられております。そして、これが全ての生物の祖先だということです。生命は誕生したときから、自分と他の区別を付け、更に自己保存と複製機能を持ちました。

 自己保存とは詰まる所、自己利益を最優先にして考えることだと思います。また、複製機能(存続本能)も広義の意味で自己保存と考えることができますからこれも自己利益の追求ということにして良いと思います。これが我々の根底にあるのです。良い悪いではありません。これが無ければ死んでしまいます。しかし、行き過ぎれば当然のことながら争いになります。今日の様々な争いは突き詰めればこの本能から発生していると思います。お互いに干渉しないように移動して距離をとれば良かった時代では、この争いはさほど大きくなかったと思います。ところが、人類は定住生活をするようになりました。共同生活が始まったわけです。すると、自己利益の追求の主要な部分は共同体の利益追求と重なるようになりました。そして共同生活を円滑にするために我々は長い期間かかって共感という感情を獲得することになったと言われています。共感することで共同意識を持ち、円滑な関係を築くという方法です。これは他人の感情をくみ取り、無条件にそれと一つになることです。その中で何が望ましく、何が望ましくないのかも自然に決まって一つの社会通念を形成していったのではないでしょうか。

 

 それでは、この感情は禅でいうところの成り切るということと同じなのでしょうか。他人と同じ感情を共有するのですから一つには違いありません。では、露柱と感情を共有できますかと聞かれたら、どうですか。 「えっ?」と答えるのが普通ではないでしょうか。人類の獲得した共感というのは他人も持つ自己保存機能との調整を図るための回避能力であることを思いだしてください。勿論、このような簡単な論議ではないでしょうが、あながち違うとも言い切れないと思います。直接自分と利害関係を持たないと考えられる無機物への共感は考えづらいと思います。  禅はものの本源を見る、これを見性といいますが、修行ではこのことを強く求めます。全てのものの本源を見極め確信し、万物と一体であることを体得するのです。これをお釈迦様は「希なるかな、希なるかな、一切衆生悉く皆如来の知恵徳相を具有す」と仰られました。衆生とは人間に限りません。山や、川や、雲や雨にも同じものを見るのです。原始、細胞膜により相対化されたこの肉体のまま、自己保存の固まりのまま自分以外と一体になる。この時にはじめて自分は自分以外のことから開放され自由に動くことができるようになります。これが仏法の宗旨です。しかし、このことが分からないうちは自己利益の追求に振り回されてしまいます。最後に傷つくのは自分なのです。我々人類は長い時間かけて人の気持ちをくみ取り無条件にそれと同化するという素晴らしい能力を身に着けました。この能力を生かさない法はありません。煩悩の嵐はいつでも襲ってきますが、本源を捉え、人類の獲得した能力を最大限に活用して本当に自由になれるようお互い努力して参りましょう。  

 

参考文献 

『宇宙からいかにヒトは生まれたか』 更科功著  新潮選書

『人類五〇〇〇年史』       出口治明著 ちくま新書

『道徳感情論』  アダムスミス著、高哲男訳  講談社学術文庫